印度ヒマラヤは崖っぷち

非人情的、破壊的、創造的。又崇高、峻嶮。

サイトとはそういうことなのだ。

2013-08-08 22:26:27 | 日記
share point 立ち上げる、

file→サイトを開く→自分たちのshareするHPのアドレスを埋める→enterを押すとIDとpaswordを聞いてくるので埋める

自分達は数回練習しているので、そこにいくつか候補のサイト名があるので選んで簡単に埋めていた。
けれど、初めて、sharepointをインストールした人がいて、真っ白のページが出ている。
さて、衝撃のおどろきが走る。

暫く考えて、サイトとはそうなのか~
http//~のことであった。と原点に戻る。
曲りなりにも真っ白のpageの下に、サイト名を投げ込む入れ物が用意されていた。

膨大な列伝が今生まれる

2013-08-08 22:20:14 | 日記
戦後、日本人の銅像はことごとくを引きずり倒されたが、ただ独り八田技師の銅像が、今なお守り続けられている。さらに、同夫妻の墓も作られて、5月8日の命日には毎年欠かさずに、華南の人々によって供養が続けられている。愛や教育には国境がない。
いつもこのメンバーの集まりは、話が中国のことになる。列伝のような感じ。膨大な列伝が生まれてくる。

瀋陽で生まれた人、上野の瀋陽の会にはいつでも待ちあわせなく訪れても、誰かしら知っている人に会われるようです。戦後何万もの人が戦争が終わって切り捨てられた。現地に残ってかってに生きて行けよ。そう言われて。すごい作業が大変だったでしょう。すごい悲しみが存在してなかったように。瀋陽に残って中国人と結婚して、日本語学校を立ち上げて成功しているひともいるという。考えもしないマジックというか、変貌ぶりを聞かされる。

他の暑気払いと重なっておられた82歳の人はそちらをけって、というかお断りしてこちらにみえる。舌を巻くような話で、
思い出のある話が、失敗のできない、話が満載。半端でない話に圧倒される。そのストーリーがこの会では大活躍する。話は絶好調。期待に応えて驚くべきマジックワールドで、最後はカラオケ1時間で〆となる。


八田與一と言う人

2013-08-08 21:48:42 | 日記
そしてその人は台湾で、それまで米がなかったところに、米つくりを教えた日本人の話をしてくれた。台湾南部の古都・台南市から東北にバスで1時間20分ほど行くと、台湾第2の烏山頭ダムに着く。湖畔にはホテルが建ち、満々と水をたたえた湖水にはボートも浮かぶ観光地になっている。このダムを見下ろす北岸に、日本式の墓があり、「八田與一、外代樹之墓」と刻まれている。墓の前には作業着姿で腰を下ろし、片膝を立てた八田の銅像が建っている。墓も銅像も、このダムを造った八田與一を敬愛する地元農民が作ったものだ。

遠い昔に10年もかけて八田技師はここに住みついてダムを完成させたそうです。やっぱり日本人はすごいと思いました。

八田與一の業績は、前台湾総統・李登輝氏の次の言葉が見事に要約している。といわれていた。馬英九はしっているけれど、「李登輝」さんの名前を何回もしゃべっていた。

『 台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本
人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大しゅう(土へん
に川、用水路)を大正9年から10年間かけて作り上げた
八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。
台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしい
ダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近
くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊 かにしたひとです

大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要
員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かった。灌漑の
専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地
を調査する任務だった。

 5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米
潜水艦の雷撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月
13日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。
7月16日、総督府葬をもって荼毘に付された。享年56歳。』



そして戦後に奥さんの下に、いらして、お墓の完成式に呼ばれだそうです。奥さんは、夫の事を悲しみそこに身投げをしたそうです。
正直話と資料とは一致しているものの、少し違う部分もあるので、また聞いてみよう。




嘉義農林

2013-08-08 21:11:59 | 日記
昨日BJLの親睦会があった。もう卒業してから5年目になる。いまだに親睦会がある。みなさんいまだに中国の大学などで、日本語の講師として、現役でご活躍。頑張っておられる。とても奥深いです。参加するたびに、新しいというか古い話が零れてくる。珍しいものがたくさん。

それで、今日から甲子園野球が始まったのですが、、戦前台湾から参加した高校があったのですって、いやそのときは甲子園中学野球大会であったそうですが。その名も嘉義農林高校というそうです。かは吉と言う字の下に前冠に加えると書く。義理人情の義、に農林とそう教えてくれた。自然と覚えた。

戦前、甲子園の決勝戦まで進んだ台湾から出場したチームがあったという。その名は「嘉義農林」。高校野球ファンでなくても台湾人の年配の方で知らないものがいないほど有名なのだという。台湾に4回ほど行ってこられた人が言っていた。台湾は年配の方は日本語が話せるという。今は北京語と言ってるひとがおおそうだけれど。上海語も、現地語もあるようだ。

台灣が日本の植民地時代、台灣の学校も日本の学校とみなされていたため、台灣の高校からも甲子園へ出場する事ができたのです。
素晴らしいことに、台湾を大事に日本語教育で、育成していって、とても日本との交流が深くなって、今でも松江商の方へ、当時の監督さんのお墓にお参りしているという話も聞きました。気になって調べていたら本当にあったのですね。