a journal of sociology

社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

やはり基礎は大事:言語をめぐるetc.

2010年11月21日 | 言語
 久しぶりの更新。今夏は家族に不幸があり、その後もいろいろなことで忙しい日々を送っている。

 ただ、最近言語(私の場合はとりわけ仏語)の基礎について考えるところがあったので、この場で少し話を。これは留学の時の話である。で、そういう時にこそ基礎的な文法が大事なのだと痛感した話である。

 それは、留学一年目の一月ぐらいだったと思う。大学院の講義にはついていけないし、そもそも周囲に話を出来る人もいなかった。

 私が留学したのは仏の地方都市、周囲には知り合いの日本人はほとんどおらず、日本語を話す機会は一週間に10分ぐらい。周囲は仏人ばかりで、まあ、気軽に仏語を話せる人がいなかったので、仏人アレルギーをなくそうと思い、大学院の授業が一段落ついたときに語学の特訓をすべく、留学先の地方都市からパリに出てきたのだった。
 
 で、お金は少しかかっただが、プライベートクラスへ。というのも、仏語の文法を気にしなくてすむ外国人同士の会話では普通に話せただが、教養のあったりする仏人とだと、極端に緊張してしまい、それを直すべく、仏人と一対一で話せる場が欲しかったから。

 でまあ、そのクラスの先生と課題について相談したところ、普通の会話、基本的なところからはじめようという話になった。専攻で使う仏語はレベル が高く、いきなりそこからはじめても、時間も限られているのでうまく行かないから、という理由。私もその先生の意見に賛成。そもそも私の場合、 周囲の仏人と話すことが出来なかったので、授業に問題があっても周囲に助けを求められない状態でだった。そこ(日常会話)を解決すれば、専門の問題の解 決にも役立つだろう(仏人の「クラスメイト」に助けを求めて)と思った。まあ、今考えると、日常会話の方は気にしないで、専門に特化した仏語を やって、日常会話は掘っておいた方がよかったかも、と思うが。つまり、日常に使う仏語と、哲学や思想、あるいは大学の中で使われる仏語はかなり違う。その両方を追いかけるとどっちも得られなくなってしまうから。
 まあ、その時の私には問題がいろいろありすぎたから、「どっちかを取れ」と言われても無理だっただろうが。

 さてクラスの内容についてだが、初級というかかなり基礎的なことをやっていたので、普段は大学院でポツンと一人だけ外国人、という生活をしていた身からすれば、かなり簡単な内容だった。でもまあ、そういう『基礎的』な部分をしっかりさせないと、仏人と話すときにいつも緊張してしまっていたから、その点から考えるといい内容だったと思う。

 そこで一つ。授業の中で、ある小説の一節を読まされたのだけれど、内容面の理解は100%でき、5分後には、小説で起きた出来事を復唱できるほどだった。 ただ、そこで先生が一つ質問を。「主人公は男性?女性?」私は、即座に「男」と答えたのだけれど(そして私のイメージの中でも主人公は男だった)、よくよく 読んでみると、冒頭の方で主人公についてる形容詞が一カ所だけ女性形になっていた(当然だが、うまくできたもので、女性形がそれとわかるのはそこだけ)。仏人の先生に聞いてみると、その形容詞の女性形が一回出てきただけで、彼女(先生)のイメージの中では女性の主人公が浮かび上がったった。まあ、私の方は、そんなとこ見落としているので、私のイメージの中では主人 公は男だった(;^_^A アセアセ…。

 「主人公が女性だとすぐにイメージに浮かんだか?」とその先生に聞いたところ、「仏人だから普通よ」との答え(「当たり前よ」だったかも?)。いずれにしても、その当時の私の超否定的な思考では、「自分は普通のことも出来ないのか(x_x)」と思ったが。

 まあ、いずれにしても、ものすごい簡単な内容でも、ネイティブはやはりネイティブなんだと思った。それと同時に、基礎の大事さ(文法的に知っているということではなく、それが「身に付いている」ということが如何に大事であるか)を痛感したのだった。

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