久しぶりに語学の話を。
実は来年度から少し時間に余裕ができるの為、なおざりだった語学のブラッシュアップに力を少し配分しようかと思っている。まあ、私の最近の必要性からすると、主に考えねばならないのは英語の方なのだが、仏語の方にも目がゆく。
そこで、最近はあまりリサーチしていなかった仏語関係の辞書を調べてみた。仏語も日本語同様、IT技術やビジネス用語に端を発した様々な新しい言葉が生まれてきている。で、そういった表現を調べるためには、やはり新しい辞書を調べることが近道である。
まあ、最近はインターネットで調べる方法もあるが、正しい表現や流通してる表現を自分で判断できる場合は良いが、そうでない場合は、ネット上の情報は慎重に取り扱った方がよい場合もある。
そういう面では、辞書に載っているものは信頼性が比較的高いので、便利である(ただ、それでも100%足りる、ということはなくて、さらなる調査が必要だが)。で、仏和辞典で最も最近改訂されて出たのが以下のクラウンであった。
このクラウンには編者として、再生産について 上 イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー)を一緒に翻訳をさせていただいた西川先生が名を連ねている。
西川先生は先日お亡くなりになったが(こちら)、一緒に翻訳をっせていただいたときの話を思い出したのだった。
私はその頃、辞書や文法書のマニアで、何か問題があると常にそうした資料に頼っていた。それが良いことか悪いことかは、判断が分かれるところで、私は自分で思考するよりはそうした文献に頼っていたところがある。
で、様々な文法書や辞書を横断的に調べて感じたのは、例文が重ねっている(同じ)場合が、かなりの確率であるということだった。その話を西川先生にしたところ、辞書という性格上、様々な文脈や意味を網羅した「穏当な例文」を採択する必要があって、そうした要請に応えるためには、決して選択肢が多いのではないという話だった。
辞書を使う身からすると、せっかく複数の辞書を持っている&調べているのに、肝心の例文のところで役立たないとは……、といった類の感想を持っていたのだが、先生のそうした作る側の苦心を知って、自分の一方的な感想を恥じたのを覚えている。そんなエピソードを思い出したのだった。
その西川先生も、今では、同じくこの辞書の編纂者である多田道太郎と同じ鬼籍に入ることを考えると、悲しい気持ちにもなるのだった。このクラウンの私の使い方については、また別の機会に照会できればと思う。
実は来年度から少し時間に余裕ができるの為、なおざりだった語学のブラッシュアップに力を少し配分しようかと思っている。まあ、私の最近の必要性からすると、主に考えねばならないのは英語の方なのだが、仏語の方にも目がゆく。
そこで、最近はあまりリサーチしていなかった仏語関係の辞書を調べてみた。仏語も日本語同様、IT技術やビジネス用語に端を発した様々な新しい言葉が生まれてきている。で、そういった表現を調べるためには、やはり新しい辞書を調べることが近道である。
まあ、最近はインターネットで調べる方法もあるが、正しい表現や流通してる表現を自分で判断できる場合は良いが、そうでない場合は、ネット上の情報は慎重に取り扱った方がよい場合もある。
そういう面では、辞書に載っているものは信頼性が比較的高いので、便利である(ただ、それでも100%足りる、ということはなくて、さらなる調査が必要だが)。で、仏和辞典で最も最近改訂されて出たのが以下のクラウンであった。
クラウン仏和辞典 第6版 小型版 | |
天羽 均 (編集), 大槻 鉄男 (編集), 佐々木 康之 (編集), 多田 道太郎 (編集), 西川 長夫 (編集), 山田 稔 (編集), ジャン=アンリ・ラマール (編集) | |
三省堂 |
このクラウンには編者として、再生産について 上 イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置 (平凡社ライブラリー)を一緒に翻訳をさせていただいた西川先生が名を連ねている。
西川先生は先日お亡くなりになったが(こちら)、一緒に翻訳をっせていただいたときの話を思い出したのだった。
私はその頃、辞書や文法書のマニアで、何か問題があると常にそうした資料に頼っていた。それが良いことか悪いことかは、判断が分かれるところで、私は自分で思考するよりはそうした文献に頼っていたところがある。
で、様々な文法書や辞書を横断的に調べて感じたのは、例文が重ねっている(同じ)場合が、かなりの確率であるということだった。その話を西川先生にしたところ、辞書という性格上、様々な文脈や意味を網羅した「穏当な例文」を採択する必要があって、そうした要請に応えるためには、決して選択肢が多いのではないという話だった。
辞書を使う身からすると、せっかく複数の辞書を持っている&調べているのに、肝心の例文のところで役立たないとは……、といった類の感想を持っていたのだが、先生のそうした作る側の苦心を知って、自分の一方的な感想を恥じたのを覚えている。そんなエピソードを思い出したのだった。
その西川先生も、今では、同じくこの辞書の編纂者である多田道太郎と同じ鬼籍に入ることを考えると、悲しい気持ちにもなるのだった。このクラウンの私の使い方については、また別の機会に照会できればと思う。