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社会理論・現代思想を主に研究する今野晃のblog。業績については、右下にあるカテゴリーの「論文・業績」から

芸術と階級について

2005年08月27日 | 理論
 ヨーロッパの現実を見る上で、おそらく芸術と階級の関係を見ることは重要な要素であるだろう。このことを、私は自分の留学において痛いほど、感じた。この「階級的現実」、あるいは「ブルデュー的現実」を体験するというのは、非常に辛い経験でもあったのだが、その「辛さ」は、海外で私が得た貴重な体験であると考えている。少なくとも「観光目的の滞在」では得られなかった体験であろう──「観光旅行」が悪いと言っているのではありませんで(^-^;、あくまでそれとは別の体験であったと言っているだけです、あしからず<(_ _)>。

 私は仏の留学でDEA(博士課程一年目相当)に在籍したのだが、そこの学生はほとんどがヨーロッパ系フランス人であった。かたや、私に親切に接してくれる学科外の友人達は、皆、移民出自のフランス人学生のみであった。彼らは皆、人間的に気さくな人たちだったのだが、ただ、そこではある種の「階級的格差」をも痛感させられた。
 つまりは、私が参加していた講義の合間、休み時間などで学生達の間で話される音楽や、芸術、あるいは芸術系映画の話題は、私の近しい友人達の間では一切話されることがなかったのだ。片方には、一緒には講義に参加するが一種距離のある関係(そしてそこで私は唯一の外国人[講義によっては、唯一の「非白人」])があり、そこでは高騰芸術が話題になる、他方では、非常に親しい友人関係、そこでは「お芸術」など話題にもならない……。こうした状況下でこそ、私は、「クラシック音楽」や美術館に並ぶ絵画が、自分の文化ではなく「彼らの文化」であることを痛感したのだった。そうであるがゆえに、その手の「お芸術」を、ありがたがって鑑賞する気にはなれなかった。

 まあ、こうした「感覚」は、私自身のものであるというよりも、私の友人のものだったのだが……。今考えてみるみると、よそ者であった私が、そうした相対的に虐げられた当事者の視点を代弁する義務は一切無かったのだが(そしてそちらの方が留学生活上は良かったのかもしれないが)、しかしそうは言っても、そうした「格差」を身をもって体験出来たのは、社会学者としては貴重な体験であったとも言える。つまりは、「ブルデュー的現実」を身をもって体験したわけであるが、そうであるからこそブルデューの理論ではどうにもならない現実(彼の理論の限界)に気付くことも出来たのだ。

 この論点は、「芸術と階級」を巡る「彼の理論の限界」として、一度論文のかたちにしたいと考えている。まだまだ、かたちのある状態ではないが、少しずつこの場でも、そのアイデアの片鱗を説明出来ればと考えている。

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