犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (17)

2014-02-15 23:48:39 | 時間・生死・人生

 経済社会の複雑なシステムにおいては、目の前の問題の先に多くの組織が絡み、利害関係人も芋づる式に増幅することになる。人は、実務的技術を身につけるだけで精一杯の状況では、個人の善意による臨機応変な行動など望むべくもない。かような行動は実際に迷惑であり、余計な責任問題に他人を巻き込むことになる。何よりも心を病まないことを第一に考えるのであれば、事なかれ主義のマニュアル思考ほど有効なものはない。

 この件の依頼人が1日長く生きようと生きまいと、この世の中は何も変わらない。それは、私の生命についても同様である。ゆえに、社会の片隅で今回の依頼人の件を託された私は、どうしても譲れないバランス感覚の中に置かれてしまった。それは、経済優先社会の拝金主義に対する無駄な抵抗をしなければならない点である。私の仕事は、余命を宣告された依頼人に対して「安心して死んで下さい」と伝えるものであってはならない。

 この経済社会が生んだ連帯保証という法制度は、無数の人間関係を破壊し、無数の人生を狂わせ、死に追いやってきた。法律実務家や法学者ならば誰でも知っていることである。しかし、現実にどうしても資金繰りが必要であり、融資がなければ全てが終わってしまう状況においては、必要なものは抽象的な理屈ではなく、連帯保証人の実印と印鑑証明である。貨幣という脳内の観念は、その脳を苦境に追い詰め、後先を考える余裕を奪う。

 「絶対に保証人には迷惑を掛けません」と誓った主債務者が自己破産し、親族の連帯保証人が残されたとなれば、双方の実家を巻き込んだ修羅場となるのは必至である。金の切れ目は縁の切れ目であり、これは親族であるが故に根が深くなる。そして、経済社会の論理は、この修羅場には全く関知しない。契約の履行に関する道徳は、何としても保証人は破産させないよう上手く言いくるめ、1円でも多く分割払いさせる行動に親和性がある。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (16)

2014-02-12 22:03:05 | 時間・生死・人生

 私が今の事務所に来たのは約1年半前である。以前に私が所属していた事務所の所長は、人情に厚く、依頼人に親身になり、何時間でも話し込むことがあった。そして、経営は下手だった。費用対効果を度外視した「依頼人の感謝の言葉」だけでは、事務所の経営など立ち行かなくなる。ビルの賃料、公共料金、税金、弁護士会の会費などの支払ばかりに追われ、結局は理念倒れが顕在化し、経営者としての不適格さを露呈するのみである。

 依頼人に親身になることは、他方で依頼人に過度の期待を持たせ、最後に「話が違う」との内紛を生じることでもあった。交渉事には相手があり、お互いに譲れない真実というものがある。弁護士が一生懸命頑張ったものの力及ばずという結果の報告は、依頼人に対して必然的に逃げ腰となり、保身に追われることになる。ここを見抜かれると「約束が違う」ということになり、話がこじれる。最初から冷淡に突き放しておけば、かような事態にはならない。

 また、「依頼人に親身になる法律事務所」という評判は、なかなか利益には結びつかない。弁護士に依頼するほどのトラブルは、短期間に同一人物に何度も起きるものではなく、起きてはならないものである。そして、弁護士に依頼して問題を解決した人の多くは、その過去について友人知人に口を閉ざす。すなわち、口コミというものが生じにくい業種である。「町弁」の事務所のビジネスモデルは、今も昔も、上客である顧問先の確保が第一である。

 私が以前の事務所と袂を分かったのは、所長から給与の引き下げを示唆された際に、「僕は金儲けなど一切目指していない」と所長から断言されたからである。近年の司法制度改革により、食えない弁護士は廃業やむなしという容赦ない競争が生じている。私は、「依頼人からもらう報酬金」よりも「依頼人の感謝の言葉」に価値を覚える人種であるだけに、その同じ人種である所長の事務所を飛び出した。お金を稼いで食べていくことは厳しい。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (15)

2014-02-11 22:52:57 | 時間・生死・人生

 自らの行動に対して最後まで責任を持たず、自分の行為がもたらす隅々までの影響への想像力を欠く者は、ただの夢想家であると思う。すなわち、高い理念を掲げるほど、最後まで約束を守る意欲が希薄になり、偽善的な行動を採ってしまうという逆効果である。観念論をもって想像力と取り違え、組織間相互の立体的な把握を欠く思考を、私は無責任の典型であるとして注意していたはずだった。しかし、罠はすぐ近くにあった。

 私が所長に対して言いたいことは、心の中に大量にくすぶっている。そして、実際に何も言えないのは、組織の上下関係がもたらす掟の遵守であり、恐怖感による萎縮であり、要するに権力関係によるものである。しかし、さらに深いところには諦めの境地がある。事務所のホームページを開くと、人の好さそうな所長の笑顔の写真と、「お困りの方は1人で悩まずお電話ください。親身に対応いたします」という文字が飛び込んでくる。

 今回の依頼人も、悪夢のような余命宣告を受けつつ、債権回収会社からの請求書の束を前にして、藁にもすがる思いでインターネットで法律事務所を探したのだった。そして、「親身に対応する」との言葉が決め手となり、この事務所を選んでくれたのである。法律家が言葉に対する厳しい責任を負うべき職業なのであれば、この思いに応えようとしないことは詐欺に等しいと思う。職業人として、1人の人間として、私の直観は変わらない。

 一人称の死は、人がものを考える最大の契機であると思う。これは「命が重い」というありきたりの話ではない。私は確かに、依頼人の生命の重さが借金の問題に覆い尽くされることを危惧し、これに抗うことを法律家の使命であると考えている。しかし、「命とお金はどちらが重いのか」というステレオタイプの問いに対しては、強い嫌悪感しか覚えない。私は今、抽象的な知的遊戯はしたくないし、実務の現場ではそのような余裕もない。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (14)

2014-02-09 22:45:06 | 時間・生死・人生

 月曜日の朝、私は電話の内容を機械的に所長に報告する。予想どおり、所長の表情は徐々に険しくなり、強い怒りを帯びてきた。「債権者には3ヶ月だけ待ってくれと言っちゃったんだろう? どう弁解するんだ」。所長の言う通り、私がどのように答えても弁解になってしまう。上手く言葉が出てこない。「法律家の言葉はそんなに軽くないという自覚が足りないんじゃないのか」と言いたげな所長の言葉を、私は自分の頭の中で補う。

 しかし、所長は机を叩いて更に厳しいことを言う。「こっちから3ヶ月だと言っておいて、守れませんでしたと債権者に謝るようじゃ、うちは嘘つき事務所だということだな。事務所の信用問題になるだろう?」。所長の言うとおりである。この経済社会は、相互に期限を守ることによって、初めて順調に回ることが可能になる。これは最低限かつ最大限の約束事だ。私にはその自覚と常識が欠けているという厳しい指摘である。

 「最初に契約した段階で普通に分割払いを始めておいて、死んだら終わりという正攻法で行くしかなかったんじゃないのか?」と所長は腹立たしげに続ける。次いで、「支払うべき債務を逃れさせてやろうとか考えて、姑息な手段を取るから面倒なことになるんだろう? 本当に3ヶ月なのか、俺は重ねて聞いたよな」と、いかにも弁護士らしく畳みかける。私はその都度「はい」と合いの手を入れ、かしこまって頭を下げるしかない。

 所長は険しい表情を崩さないまま、「もう遅いだろう。3ヶ月前なら、無理にでも手を添えて分割払い承諾書に署名させれば済んだものを、今このタイミングでそれをやったら大問題だよな。奥さんからクレームが来たら終わりだろう」と機関銃のように言う。1つ1つの言葉が私に刺さってくる。心がゾワゾワし、全身がゾワゾワする。依頼人が3ヶ月で死亡しなかったという事実を前にして、瞬間的に背筋に冷や汗を感じていたのは私だ。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (13)

2014-02-07 22:14:41 | 時間・生死・人生

 目に涙が滲んだまま受話器を置くと、私は深夜残業の真っ只中であるにもかかわらず、いつもの深い疲労感が消えていることに気付く。私は、「自分はいずれ死ぬ」という恐怖感を誤魔化すために、目の前の仕事に没頭し、俗世間の欲望がもたらす紛争に深入りしてきた。私の疲労感が、単なる労働時間の蓄積ではない俗世の垢と言うべきものに拠っているならば、この涙は私が仕事を続けていく上でどうしても必要なものだと思う。

 私が垂直的な思考から逃避し、自分の身を多忙な日常に紛れさせていたのは、ニヒリズムの恐怖に足を取られないためであった。しかしながら、その結果として私は「仕事から逃げ出したい」「組織から逃れたい」という思いを抱えていたのであり、全く始末に負えない。どちらに転んでも行き着く先は死である。そして、このような私の寝言は、今回、余命宣告を受けた依頼人の全身からの言葉によって簡単に打ち砕かれたのだった。

 世間一般に語られる理想の概念に逆らい、端的な現実のみに向き合ってきたという私の確信が、浮き世離れした夢物語への不信感の影に付きまとわれるようになってから、一体どれだけの時間が流れてきたのかと思う。しかし、そのような私の思考自体が、自分は平均寿命までは生きるだろうという根拠のない自信に基づいている。遠い将来の死からの逆算である。死が後ろから突然自分を捉える可能性を、私は全身では理解していない。

 私には医学の難しいことはわからない。ただ、彼の「生きたい」という意志が実際にどのような効果を生じたのかについては、医学的な説明は難しいのではないかと思う。主治医の驚きの言葉について、単に余命の予想が外れたことの責任回避であるとは想像したくない。現代医学による正確な判定において、彼は余命3ヶ月であったのだと思う。そして、私はその判定に基づいて仕事をしていたことを思い出し、背筋を冷や汗が伝う。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (12)

2014-02-06 22:06:30 | 時間・生死・人生

 最初の日から3ヶ月と数日が過ぎた。金曜日の夜9時前、事務所の電話が鳴る。私はディスプレイを見て、依頼人の妻の携帯電話番号であるとわかり、緊張して受話器を取った。どのような報告であっても適切な返答ができるよう、私は先回りして必死に頭をひねっている。これは、「依頼人に対して失礼のないように」という名目による自己保身である。この場面では、コミュニケーション能力なるものは全く役に立たない。

 電話口から、女性の弾んだ声が聞こえてきた。その瞬間、私の脳内にあった一方の言葉の束が消失する。依頼人は引き続き厳しい状態ではあるものの、当初の予想からは考えられないほど持ち直し、難しいと思われた一時帰宅まで果たし、主治医も驚いているほどだと言う。私は一気に緊張が解けて、「ああ、はい、そうですか」と繰り返すばかりである。心の底から嬉しいと思う。思考が回らないまま、ただただホッとしている。

 依頼人の妻は、「お陰様で夫は落ち着いてしっかり生きています。本当にありがとうございます」と涙声で話す。私はお礼の言葉などを受ける立場ではない。医師の示した余命を超えて彼が生きているのは、あくまでも医師の尽力と、彼の生来の体力や生命力によるものである。しかし、彼女の涙声に凝縮された沈黙に圧倒されて、私も自然と目頭が熱くなる。これは、もらい泣きなどという種類のものではない。私は感動などしていない。

 仕事と私事を問わず、このような「人間らしい気持ち」になったのは本当に久しぶりだと思う。前回がいつだったのか思い出せない。人間は誰もがいずれ必ず死ぬ。1分1秒を必死に生き長らえることは、全宇宙の側から見れば些細なことである。しかし、実際に依頼人から命の残り時間を託されてしまった私は、つべこべ言う前に、彼が3ヶ月を少しでも超えて生きられるよう願うことを、現に人間としての当然の義務だと捉えている。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (11)

2014-02-03 22:36:36 | 時間・生死・人生

 依頼を受けてから2ヶ月が経過した。依頼人夫婦からの連絡はなく、私からもあえて連絡を取らない。他方で、債権回収会社から事務所への催促の電話は続き、担当者の声のトーンがさらに厳しくなっている。事態が進捗しないことについて、彼は上司からの叱責を受け、板挟みの状況になっていることがわかる。このような切羽詰まった担当者は恐ろしい。何十分も執拗に食い下がられ、私は凄味の込もった嫌味の矢面に立たされてクタクタになる。

 担当者は、「これ以上誠意が見られないのであれば遅延利息は1円もカットしませんよ」と言い放つ。そして、最後の1日までたっぷり利息を付けることと、今この瞬間にも利息が膨れ続けていることを強調する。「日一日」という部分に力を込める担当者の言葉に、私の意識は、日一日と残された時間が減っているはずの依頼人のほうに瞬間的に飛ぶ。なぜ、利息が刻一刻と増えることと、生命の残り時間が刻一刻と減ることが、同じ「今」なのだろう。

 人間の余命は、医師から宣告されようとされまいと、生まれた瞬間から減り続ける。ところが、3ヶ月という期限を切られていない私は、その意味を脳で考えているに過ぎない。貸金の遅延利息とは、人間の脳が生み出す幻想の典型だと思う。しかし、利息の発生が時間の経過に従っているなら、時間も人間の脳が生み出す幻想ではないのか。ただ、依頼人の時間が「家族で過ごす最後の時間」になるのであれば、これはゆっくりと流れなければならない。

 人間の脳は、自分の脳内の腫瘍の発生をも自分の脳に知らせることができない。そして、他人に開頭してもらわなければ、それが良性か悪性かも知ることができない。電話口から、「人の話を聞いてるんですか」と担当者が苛立ったように問うてくる。私は「聞いてません」と答え、「こちらから申し上げられることは、あと1ヶ月はかかります、ということだけです。同じことを何回言えばわかるんですか?」と即座に続け、強引に電話を切ってしまう。

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余命3ヶ月の連帯保証人の話 (10)

2014-02-02 23:50:23 | 時間・生死・人生

 依頼を受けてから1ヶ月が経過した。依頼人夫婦からの連絡はない。他方、債権回収業者から事務所への電話の頻度は高くなってくる。「説明責任を果たさないで逃げることが法律事務所の決まりなんですか?」との質問は嫌味だ。「連帯保証人は33歳でしょう? 普通に仕事してるんでしょう? 失業しても再就職できますよね? 手取りがいくらで、生活費がいくらで、いくら返済に回せるのか、そんな説明は難しくないでしょう?」。

 担当者が食い下がるのは当然である。私の回答を彼がそのまま上司に持って行ったら、恐らく怒鳴りつけられ、「何回でも電話し直せ」と叱責されるだけだろう。組織人である以上、つべこべ言わずに与えられた職務を全うしなければならない。仕事の価値は結果が全てであり、過程における努力のみを主張したところで、評価を受けることはない。これが学校と会社の違いである。人は組織内で心を殺しながら、頭だけをフル回転させる。

 「お言葉ですが、何が説明責任で何が説明責任でないかを決める権限が何であなたにあるんですか? 私がいつあなたにその権限を与えましたか?」と、私は論点をすり替える。担当者のほうも興奮して水掛け論になる。「お言葉を返すようですが、そんなことは私共にとってどうでもいい話で、お宅は逃げている事実から逃げていることは認めるんですね?」。お互い、こんな電話は早く切り上げたいと思いながら、なかなか終わらない。

 仕事上の精神衛生を保つ工夫は、善悪二元論に依拠することである。「依頼人のQOL(生活の質)を大切にする法律家と、金儲けしか眼中にない冷酷な金貸しとの戦い」と考えていれば、私のストレスは軽減される。他方で、債権回収業者から見れば、依頼人は「債務を踏み倒そうとする卑怯者」であり、私はそれに加担する一味にすぎない。このような場面において、相手方の身になって理解に努めることは、身の破滅を意味する。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (9)

2014-02-02 22:39:52 | 時間・生死・人生

 債権回収業者の用いる論理はあくまでも辛辣で、しかも声の質は驚異的にねちっこい。「3ヶ月とか、何チンタラやってんですか? 3ヶ月というのはどのような根拠に基づいて、いつ、どこで、誰からその数字が出てきたのかお宅から説明されなければ、誰だって理解できないでしょう? 3ヶ月後に耳を揃えて全額持ってくるという話なんですか?」。電話口からは、切れ目のない正義の演説が続く。聞き入ってはいけない。

 相手の言葉の切れ目を突いて、こちらも言葉を差し挟む。「3ヶ月の根拠については、依頼人に対する守秘義務の関係で申し上げられないと私は先程も言いましたよね? あなたは人の話を聞いてないんですか? 同じことを何回も言わせないで下さいよ」。双方の言葉がぶつかる。先に黙ってしまったほうが負けである。お互いに相手の話など聞いておらず、ただの屁理屈の応酬である。受話器を置くと、どっと疲れが出る。

 ある人が語る言葉は、必然的にその者の人格を表す。言葉を安売りする人間は、すなわち安い人間であると思う。しかし、組織と呼ばれるものに属し、立場と呼ばれるものに立つとき、どれだけの人間がこの安さから自由になれるのだろうかとも思う。仕事を覚えるとは、自分を殺すことであり、進んで職業病にかかることである。そして、給与を得るということは、社会人としての責任を果たし、与えられた役割を演じることである。

 この債権回収会社の担当者は、非常に仕事熱心で能力の高い社員であると思う。電話口の声だけで表情が想像でき、その内心の悪意まで想像できてしまう。彼は、電話の相手方に徹底的に嫌がられるという役割を忠実にこなしている。そして、「ほとほと呆れ果てて物も言えない」という声を用いつつ、矢継ぎ早に言葉を繰り出し、聞く者を不快にさせるという技を繰り出してくる。私はその瞬間、依頼人の存在を忘れている。

(フィクションです。続きます。)