犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (24)

2014-02-24 23:15:11 | 時間・生死・人生

 仮に債権回収会社が訴訟を起こしてきたとしても、依頼人には差し押さえられる給与がない。預金口座も空っぽである。ゆえに、私が電話で愚にもつかない言い争いをして恨みを買ったところで、実害が生じることはない。法律家は、「プロの法律家として恥ずかしい屁理屈」と、そうでない屁理屈との差異に敏感であり、正義を暴走させているときほど予防線を張っているものである。これは、私も環境の中で自然と身につけてしまったものだ。

 回収会社の担当者は、「うちが銀行でないからバカにしてるんでしょう? あなたも銀行さんには態度を変えるんでしょう?」と怒りを見せる。これには虚を突かれた。私にその発想はなかった。法律家であれば、普通はこの辺りの複雑な事情に思い至るのが当然のはずであり、私はやはり未熟で純粋な人間である。自分では1円もお金を借りていない保証人が、署名と押印をしただけで人生の全てが狂ってしまうという事実に心を痛めているだけだ。

 依頼人は、愚直で平凡なサラリーマンであった。そして、肉親の会社の危機に直面し、人助けであると思い、連帯保証人を引き受けたのであった。「真面目に働いていればいつか必ずいいことがある」という道理は、世知辛い社会におけるせめてもの希望である。逆に、「他人の借金まで払っても少しもいいことがない」という道理なのであれば、人は「そのような世の中には生きていたくない」と思う。この絶望は非常に深く、誤魔化しがきかない。

 私の目の前にある現実は、さらにここから一回転している。依頼人は、脳内の思考による「死にたい」という抽象的な死ではなく、脳内の腫瘍による「死にたくない」という具体的な死を前にして生きている。法律論はここでも、「契約が守られなければ社会は滅茶苦茶になる」という原則論から離れることができない。しかし、これだけで済ませられるのは、世間を知り過ぎた守銭奴か、逆にお金の苦労をしたことがない恵まれた者だけだと思う。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (23)

2014-02-24 21:34:20 | 時間・生死・人生

 私が調子に乗って屁理屈の演説をしているとき、依頼人の存在はどこかに飛んでいる。正確に言えば、依頼人の存在を利用し、代理人という肩書きを最大限に使いながら、献身的な姿勢をほのめかしているということである。「正義」という観念は、改めて怖いものだと思う。正義が正義として主張されるのであれば、それは無条件に絶対的正義であり、その内容については既に主張が終わってしまっている。内省の契機を経ることがない。

 「3ヶ月前には3ヶ月後のことはわかりませんから、3ヶ月で結論が出るか出ないかという結論がわかっていたら話が変ですから、お宅の質問にどう答えたら納得して頂けるのか、こちらのほうが教えてほしいんですが」と、私は溜め息を交えた声を出す。担当者の非常識ぶりにうんざりしている自分を装っているうちに、本当に担当者の非常識ぶりにうんざりしてくるのが不思議である。言葉は世界を作り、存在しないものを存在させる。

 ベラベラと屁理屈を述べて相手を困らせ、疲れさせるのはいい気分である。葛藤を経ていない安い言葉である分、論理は明快であり、迷いがない。ここで自分の言葉に責任を持つということは、自分が責任を問われないように注意することであり、相手に責任を負わせることである。相手から言葉尻を捉えられたり、揚げ足を取られることは、言葉を大事にしていないことの証拠だとして非難される。この思考停止から抜け出すことは難しい。

 私は、「債務者の味方」といった正義を標榜し、悪と闘い、暴走する罠には落ちたくない。ある正義は、逆から見れば不正義であり、相互に正義が暴走しているだけである。債権回収会社の担当者も、忠実に社会人の義務を果たしているに過ぎない。ここの表向きの論理によって見えなくなる部分、すなわち社会の裏側や汚い部分を知らないまま、世間知らずの学生の延長で「社会を変えたい」と熱くならないよう戒めるのみである。

(フィクションです。続きます。)