犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (22)

2014-02-22 23:27:35 | 時間・生死・人生

 「何で3ヶ月でないのに3ヶ月だと言われたんですか」と、債権回収会社の担当者が電話口で食い下がる。私は、「失礼ですが、お宅の事情だけで話が進むわけではないですから、そう言われても困るんですが」と呆れてみせる。担当者は私の言葉を聞かずに、「あなたのせいで事務が進捗せず支障を来たしてるんですよ」と怒る。私は担当者の言葉を受けて、「進捗はお宅の内部の話ですから、こちらには何かを言う権利がないんですが」と呆れる。

 担当者の言葉が途切れたところに付け込んで、私は屁理屈を続ける。「結局、お宅は思い通りにならないから、何で思い通りにならないのかと言っているようにしか聞こえないんですが、それはそういうものだとしか言えないですよね」。「お宅がそのような言い方をされるなら、こちらはもう返事のしようがないですし、この辺は当然わかって頂けないと困ることですし、そんなこともわからないのでは話を続けても意味がないでしょう」と、大袈裟に憤慨する。

 回収会社の担当者は、「3ヶ月とにかく待ってくれと、理由は後でわかるからと、そうあなたに言われたから、今電話で聞いてるんですよ。おかしいですか」。「私も答えを聞かないと上席に報告できませんから」と粘る。「上席に報告」という部分に力が入っている。この担当者が、今回の粗相を上席から怒鳴りつけられ、人格否定のパワハラまで受けたとすれば、その原因を作ったのは間違いなく私である。しかし、ここを掘り下げると私の精神が潰れる。

 担当者の言い分は、社会人として尤もである。ゆえに、担当者の口調が敵対的である点の不快感に、私の世界の中心は移動する。正義と悪の二元論である。「結局は、お宅の危機管理が甘いとか、そういう問題ですよね」。「なぜ3ヶ月かという質問に答えること自体が、こちらの依頼人に対する守秘義務違反になることを理解しておられますか。質問自体がおかしい質問には答えようがないんですが」。議論のための議論にはまると抜け出せない。

(フィクションです。続きます。)

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (21)

2014-02-22 21:24:39 | 時間・生死・人生

 3ヶ月を過ぎると、債権回収会社からの催促の電話の頻度が増えてきた。1週間に数回かかってくることもある。恐らく担当者は、社内において、上司に「3ヶ月で見通しがつきます」と言って守れなかったことの責任の矢面に立たされているはずである。ここの点を想像すると、私は少し心がざわつく。しかし、電話口からの担当者の喧嘩腰の声を聞くと、そのような繊細なものは吹き飛んでしまう。世の中、物事が予定通り行かないのは当たり前だ。

 人間は、それぞれの思惑が交錯する交渉事に揉まれていると、いつの間にか性格が図太くなり、面の皮が厚くなってしまう。他者への想像力や共感力なるものは、それを働かせたいときには働かせ、それを働かせたくないときには働かせず、要するに他者ではなく自分の好き嫌いであると思う。そして、この矛盾を覆い隠すものは「正義」である。純粋な観念として身につけられた正義は、世の中の厳しさを経ると、なぜか権力性を帯びる。

 人が人生を誠実に生きることの難しさは、それ自体に内在する論理の限界ではなく、組織における他者への責任との関連性であると思う。人は組織の中で社会性を身につけ、ある時はペコペコし、ある時は毅然とし、この技術の会得は公共的な利益に転化する。「人は1人で生きているのではない」という命題は、他者の人生を尊重することではなく、相手の立場やメンツを察知することである。すなわち、相手の足元を見て態度を変えることである。

 法律家は、屁理屈と屁理屈の戦いの中で、他人の屁理屈を心底から嫌いつつ、自分の屁理屈を愛する。人の職業は、仕事上の演技に止めているはずが、思考の型まで規定することを免れないものだと思う。公務員は公務員、実業家は実業家、学者は学者である。これは肩書きではなく、私生活全般の人格である。ここで、法律家の職業病とは、もともと理屈っぽい人間が法律理論を身につけ、さらに法律実務で理屈っぽくなる過程である。

(フィクションです。続きます。)