犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (18)

2014-02-17 22:39:44 | 時間・生死・人生

 人が怒りを感じるポイントはまちまちであり、議論して噛み合う種類のものではない。私は、ある出来事が法制度の矛盾や社会の矛盾だと感じられるときに、そのこと自体に怒りを覚えることが多い人間である。これに対し、ビジネスに精通し、朝から日経の隅々まで目を通せるような弁護士は、その部分にはあまり怒りを感じないようだ。そして、私が全く怒りを覚えないような部分が、その弁護士の激しい怒りのポイントであったりする。

 民法改正案により、ようやく連帯保証人制度の廃止が現実のものとなってきた。経済に造詣の深い専門家は、金融機関の貸し渋りによる中小企業の影響を懸念し、大局的な見地からの議論を繰り広げる。この議論の側から見れば、私のような感情論は素人のそれであり、法律家としては失格だということになる。そして、私にとって壁だと感じられているのは、目の前に座っている所長ではなく、もっと大きな法制度・社会常識である。

 「余命3ヶ月」という具体的な死までの時間を目の前にして、私は所長の人間的な部分に期待してしまった。そして、これは愚かなことだった。グローバルな視点から日経平均株価の動向を注視し、為替市場を常時チェックしている所長にとって、この案件はあくまで「債権回収」「焦げ付き」の問題である。我が国の1000兆円超えの累積国債赤字を現実問題として捉えている頭脳は、500万円の債務の実体をそのように把握する。

 債権債務で構成される経済の流れを見るためには、自分をその外側に置かなければならない。いわゆる評論家目線である。ここには、労働力を売って対価を得ることの直感的な惨めさはない。また、この対価を債務の返済に充てなければならないときの独特の切なさはない。債権と債務は、実際には同じ抽象概念の両面である。そして、複雑な法制度の構築は、金融業者側の「債権回収」「不良債権」の概念の実体化に拠っている。

(フィクションです。続きます。)