犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (16)

2014-02-12 22:03:05 | 時間・生死・人生

 私が今の事務所に来たのは約1年半前である。以前に私が所属していた事務所の所長は、人情に厚く、依頼人に親身になり、何時間でも話し込むことがあった。そして、経営は下手だった。費用対効果を度外視した「依頼人の感謝の言葉」だけでは、事務所の経営など立ち行かなくなる。ビルの賃料、公共料金、税金、弁護士会の会費などの支払ばかりに追われ、結局は理念倒れが顕在化し、経営者としての不適格さを露呈するのみである。

 依頼人に親身になることは、他方で依頼人に過度の期待を持たせ、最後に「話が違う」との内紛を生じることでもあった。交渉事には相手があり、お互いに譲れない真実というものがある。弁護士が一生懸命頑張ったものの力及ばずという結果の報告は、依頼人に対して必然的に逃げ腰となり、保身に追われることになる。ここを見抜かれると「約束が違う」ということになり、話がこじれる。最初から冷淡に突き放しておけば、かような事態にはならない。

 また、「依頼人に親身になる法律事務所」という評判は、なかなか利益には結びつかない。弁護士に依頼するほどのトラブルは、短期間に同一人物に何度も起きるものではなく、起きてはならないものである。そして、弁護士に依頼して問題を解決した人の多くは、その過去について友人知人に口を閉ざす。すなわち、口コミというものが生じにくい業種である。「町弁」の事務所のビジネスモデルは、今も昔も、上客である顧問先の確保が第一である。

 私が以前の事務所と袂を分かったのは、所長から給与の引き下げを示唆された際に、「僕は金儲けなど一切目指していない」と所長から断言されたからである。近年の司法制度改革により、食えない弁護士は廃業やむなしという容赦ない競争が生じている。私は、「依頼人からもらう報酬金」よりも「依頼人の感謝の言葉」に価値を覚える人種であるだけに、その同じ人種である所長の事務所を飛び出した。お金を稼いで食べていくことは厳しい。

(フィクションです。続きます。)