犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (12)

2014-02-06 22:06:30 | 時間・生死・人生

 最初の日から3ヶ月と数日が過ぎた。金曜日の夜9時前、事務所の電話が鳴る。私はディスプレイを見て、依頼人の妻の携帯電話番号であるとわかり、緊張して受話器を取った。どのような報告であっても適切な返答ができるよう、私は先回りして必死に頭をひねっている。これは、「依頼人に対して失礼のないように」という名目による自己保身である。この場面では、コミュニケーション能力なるものは全く役に立たない。

 電話口から、女性の弾んだ声が聞こえてきた。その瞬間、私の脳内にあった一方の言葉の束が消失する。依頼人は引き続き厳しい状態ではあるものの、当初の予想からは考えられないほど持ち直し、難しいと思われた一時帰宅まで果たし、主治医も驚いているほどだと言う。私は一気に緊張が解けて、「ああ、はい、そうですか」と繰り返すばかりである。心の底から嬉しいと思う。思考が回らないまま、ただただホッとしている。

 依頼人の妻は、「お陰様で夫は落ち着いてしっかり生きています。本当にありがとうございます」と涙声で話す。私はお礼の言葉などを受ける立場ではない。医師の示した余命を超えて彼が生きているのは、あくまでも医師の尽力と、彼の生来の体力や生命力によるものである。しかし、彼女の涙声に凝縮された沈黙に圧倒されて、私も自然と目頭が熱くなる。これは、もらい泣きなどという種類のものではない。私は感動などしていない。

 仕事と私事を問わず、このような「人間らしい気持ち」になったのは本当に久しぶりだと思う。前回がいつだったのか思い出せない。人間は誰もがいずれ必ず死ぬ。1分1秒を必死に生き長らえることは、全宇宙の側から見れば些細なことである。しかし、実際に依頼人から命の残り時間を託されてしまった私は、つべこべ言う前に、彼が3ヶ月を少しでも超えて生きられるよう願うことを、現に人間としての当然の義務だと捉えている。

(フィクションです。続きます。)