犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (15)

2014-02-11 22:52:57 | 時間・生死・人生

 自らの行動に対して最後まで責任を持たず、自分の行為がもたらす隅々までの影響への想像力を欠く者は、ただの夢想家であると思う。すなわち、高い理念を掲げるほど、最後まで約束を守る意欲が希薄になり、偽善的な行動を採ってしまうという逆効果である。観念論をもって想像力と取り違え、組織間相互の立体的な把握を欠く思考を、私は無責任の典型であるとして注意していたはずだった。しかし、罠はすぐ近くにあった。

 私が所長に対して言いたいことは、心の中に大量にくすぶっている。そして、実際に何も言えないのは、組織の上下関係がもたらす掟の遵守であり、恐怖感による萎縮であり、要するに権力関係によるものである。しかし、さらに深いところには諦めの境地がある。事務所のホームページを開くと、人の好さそうな所長の笑顔の写真と、「お困りの方は1人で悩まずお電話ください。親身に対応いたします」という文字が飛び込んでくる。

 今回の依頼人も、悪夢のような余命宣告を受けつつ、債権回収会社からの請求書の束を前にして、藁にもすがる思いでインターネットで法律事務所を探したのだった。そして、「親身に対応する」との言葉が決め手となり、この事務所を選んでくれたのである。法律家が言葉に対する厳しい責任を負うべき職業なのであれば、この思いに応えようとしないことは詐欺に等しいと思う。職業人として、1人の人間として、私の直観は変わらない。

 一人称の死は、人がものを考える最大の契機であると思う。これは「命が重い」というありきたりの話ではない。私は確かに、依頼人の生命の重さが借金の問題に覆い尽くされることを危惧し、これに抗うことを法律家の使命であると考えている。しかし、「命とお金はどちらが重いのか」というステレオタイプの問いに対しては、強い嫌悪感しか覚えない。私は今、抽象的な知的遊戯はしたくないし、実務の現場ではそのような余裕もない。

(フィクションです。続きます。)