犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (19)

2014-02-19 23:24:07 | 時間・生死・人生

 私は所長の前で硬直しながら、内心の複雑な思いを押し殺している。この心の操作は、思いを複雑なまま保存するのではなく、単純化して終わらせてしまうことである。およそ「実務と理論の融合」など無理な注文だとつくづく思う。目の回るような実務の現場では、複雑な理論は単純にして済ませなければ、人間はパニックに陥って頭がパンクしてしまう。高邁な理論が高邁であるのは、それが現場の悲鳴と無縁だからである。

 「町弁」の仕事は、暮らしの中の相談事を通じて、依頼人の人生の一部を預かることである。今回の仕事は、法理論として難問を含むわけではなく、債権回収会社との交渉も一辺倒であり、弁護士としての専門知識や手腕が必要な種類のものでもない。依頼人の希望に沿うよう力を尽くすことが可能である。費用対効果が極めて悪いわけでもなく、「もう少し事務所全体で親身になってもいいではないか」というのが私の本音である。

 所長が私に不快感を示す理由はよくわかる。私の行動の中に、「誰がやっても同じ仕事はしたくない」「自分だけの仕事がしたい」という虚栄心が垣間見え、それがイソ弁以下のノキ弁の忠誠心を明らかに疑わせるからである。しかしながら、私はいずれ死すべき人間として、どうしてもこの仕事への熱意を失うことができない。そして、この仕事に限らず、「なぜ人は苦しい仕事を続けるのか」という問いを失うことができない。

 他方で、社会人・組織人であることの絶望によって、私のこの熱意は完全に空回りしている。法律実務家にとって「期間」は命である。期日や期限に1日遅れただけで、強制執行を受けて会社が倒産することもある。私が「3ヶ月」という数字を出せば、私はこの数字に対して責任を負う。従って、債権回収会社から厳しく問い詰められることは当然である。この点の軽率さや緊張感の欠如を叱責されれば、私には返す言葉がない。

(フィクションです。続きます。)