犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (13)

2014-02-07 22:14:41 | 時間・生死・人生

 目に涙が滲んだまま受話器を置くと、私は深夜残業の真っ只中であるにもかかわらず、いつもの深い疲労感が消えていることに気付く。私は、「自分はいずれ死ぬ」という恐怖感を誤魔化すために、目の前の仕事に没頭し、俗世間の欲望がもたらす紛争に深入りしてきた。私の疲労感が、単なる労働時間の蓄積ではない俗世の垢と言うべきものに拠っているならば、この涙は私が仕事を続けていく上でどうしても必要なものだと思う。

 私が垂直的な思考から逃避し、自分の身を多忙な日常に紛れさせていたのは、ニヒリズムの恐怖に足を取られないためであった。しかしながら、その結果として私は「仕事から逃げ出したい」「組織から逃れたい」という思いを抱えていたのであり、全く始末に負えない。どちらに転んでも行き着く先は死である。そして、このような私の寝言は、今回、余命宣告を受けた依頼人の全身からの言葉によって簡単に打ち砕かれたのだった。

 世間一般に語られる理想の概念に逆らい、端的な現実のみに向き合ってきたという私の確信が、浮き世離れした夢物語への不信感の影に付きまとわれるようになってから、一体どれだけの時間が流れてきたのかと思う。しかし、そのような私の思考自体が、自分は平均寿命までは生きるだろうという根拠のない自信に基づいている。遠い将来の死からの逆算である。死が後ろから突然自分を捉える可能性を、私は全身では理解していない。

 私には医学の難しいことはわからない。ただ、彼の「生きたい」という意志が実際にどのような効果を生じたのかについては、医学的な説明は難しいのではないかと思う。主治医の驚きの言葉について、単に余命の予想が外れたことの責任回避であるとは想像したくない。現代医学による正確な判定において、彼は余命3ヶ月であったのだと思う。そして、私はその判定に基づいて仕事をしていたことを思い出し、背筋を冷や汗が伝う。

(フィクションです。続きます。)

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