犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (25)

2014-02-25 22:40:17 | 時間・生死・人生

 人がこの世に生まれてくるということは、余命が長くても80年か100年だと宣告されることである。この依頼人の連帯保証債務の問題においても、余命が3ヶ月か半年か1年かということは、現に大きな違いをもたらしているわけではない。最大の違いは、ある人が余命という概念そのものに捕らえられているか否かである。ここでの問題は、医学的な余命の判断の正当性ではなく、ましてや余命を宣告することができる医師の権威でもない。

 私は確かに、「依頼人には債務の心配など忘れてもらって、どうか心穏やかに生きてほしい」と考えている。しかし、このような同情の視線は、自分を自分であると信じ、生死の外側から他人事の死を眺めているにすぎない。私も所長も、債権回収会社の担当者も、自分が死ぬべき存在であることを忘れたいがため、日々の忙しさにかまけている点は共通である。人生の形式を内容とすり替え、どうせ死ぬなら人生は楽しんだほうが得だと考えている。

 依頼人が見ている世界と、私が見ている世界は違う。依頼人に対しては真実の言葉しか通用せず、価値のないものは見抜かれる。日常生活の中で最重要だと思われている事柄、例えばビジネスマナー、5年後の自分のためのスキルアップ、長いものに巻かれる処世術などは、真実の言葉のみを洞察する者からは全て切り捨てられる。私が生きている緩い世界は、依頼人が生きている厳しい世界に対して、論理的に上位に立つことは絶対にできない。

 私がこの依頼人のために誠実に仕事をしなければならないのは、このような畏怖と敬意によるものである。しかし、債権回収会社との電話で安っぽい理屈を連発した後は、現に自分が行っている事実がひたすら惨めで情けない。正義の戦いのために熱くなる心情とは程遠く、かといって哲学を形而下に持ち込んで理解されない苛立たしさとも異なる。単に、勝手に思い込み、勝手に苦労して悩んでいるだけであり、傍迷惑となることを恐れるばかりである。

(フィクションです。続きます。)

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