犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『残酷人生論』 より

2010-03-07 23:26:40 | 読書感想文
p.101~
 イデオロギー信仰も、キリスト教信仰も、はたまたオウム真理教信仰も、何かひとつのことを信仰している人々を笑う余裕が、人々にはできてきたかのように、20世紀も末になって少し見受けられるけれども、ナニ、大差ない。神を拝まない人は、金を拝んでいたりするのである。拝金教信者。
 
p.106~
 私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは、信じることなく考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言われているのかを考えることのほうが、先のはずだからである。これは、驚くべき勘違いである。オウムの事件は、たぶん、トドメの悪夢なのだ。

p.108~
 オウムの一件にもかかわらず、世の「不思議大好き」ブームは衰えないらしく、書店には新手の「精神世界モノ」が平積みされている。
 自分の「前世」を知りたいという願望にも、同種の転倒が潜んでいる。現在を知るためには、現在を知れば足りる。前世を知ろうが知るまいが、この現在には何の変わりもない。それなら、なぜとくに前世なんかを知る必要があるのだろうか、いかなる「奇蹟」を人は期待しているのだろうか。

p.112~
 信じる者が救われるのは、当然である。なぜなら、救われたくて信じるからである。ところで、人が何かを信仰するとき、たとえばオウムのように明らかなウソとわかる宗教でも、信じられる人はそのことによって救われているからいい、信じられる人はいい、という言い方をする人もいる。しかし、これは本当だろうか。
 本当のことというのは、本当だと認められるから本当なのであって、本当だと認められないことは本当ではない、ウソである。それで、本当ではないウソのことというのは、認められるのではなく信じられることになる。人がそれを信じるのは、それがウソだからである。

p.118~
 たとえば、「死後の生」という言い方、あれは何か。生ではないもののことを死と呼ぶということに、我々は決めているのだから、「死後の生」という言い方は、ないのである。そういうものが「何もない」と言っているのではない。なぜなら、無は無いからである。存在のみが、在るからである。
 無くなることなく常に在るから、それは「存在」と呼ばれるのだが、生前死後にかかわらずに存在であるその存在、それと、この「私」との結託関係、これこそが究極の謎なのだ。


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 この本は、オピニオン誌「Ronza」の平成7年4月号から平成9年6月号までの連載を集めたもので、ちょうど地下鉄サリン事件の直後の時期であり、オウム真理教についての記述が多く出てきます。
 
 平成7年には「ああ言えば上祐」が流行語になりました。一流大学卒、頭脳明晰、ディベート能力抜群、プレゼンテーション能力秀逸。しかしどういうわけか、それを全部集めると滅茶苦茶になるという意味で、含蓄のあるワンフレーズであったこと思い出します。
 思考停止状態とは、絶句して沈黙している状態ではなく、自信満々で能弁に語り続ける状態を指すのだと改めて気付かされます。

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