犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞・文化欄 『講演の活字化禁じた志』より

2010-03-17 23:33:50 | 言語・論理・構造
平成22年3月17日夕刊 『45年ぶり発見の小林秀雄講演テープ』より

 小林秀雄は録音されていることがわかると途中でも講演をやめることがあり、活字にするのも自分で手を入れない限りは認めなかったという。なぜそこまで活字化を禁じたのか。その理由を小林自身が語った言葉が「新潮 小林秀雄追悼記念号」(83年)のなかで、国民文化研究会理事長(当時)の小田村寅二郎氏によって紹介されている。
 
 小林は「僕は文筆で生活しています。話すことは話すが、話すことと書くこととは全く別のことなんだ。物を書くには、時に、一字のひらがなを“は”にするか“が”にするかだけで2日も3日も考え続けることだってある。話したことをそのまま活字にするなどということは、NHKにだって認めたことはないし、それはお断りします。録音テープを取るのも困る」と言い切ったという。小林の文章を書く覚悟と信念がしっかりと見える言葉だ。

 新潮社では講演CDをシリーズ化しているが、これは「死の直後、当時の編集担当者が、遺志に背くのを承知で遺族に『散逸させてはならない』と説得して同意を得たから」という。ただし、小林自身が手を入れたもの以外は、講演内容を活字化することは、今もしていない。


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 昨年の衆院選以来、取り調べ可視化法案(犯罪取り調べの全課程を録画・録音する刑事訴訟法改正案)の議論が続いていますが、両論の平行線が交わる様子は見られません。可視化の賛成論は「過酷な取り調べによる自白の強要の防止」を前提としており、反対論は「被疑者と担当官との信頼関係が保てなくなること」を前提としており、そもそも論点が噛み合っていないようです。
 
 取り調べも人間同士の会話である以上、小林秀雄が講演の録音を嫌い、その文字化を嫌った覚悟と信念を突き詰めてみれば、この場面にも同じことがあてはまるように思われます。すなわち、どんなに録音テープの再生・分析を精緻に行ったところで、人間の自白の任意性に辿り着くことは不可能だと思います。

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