犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(5)より

2009-02-26 21:32:23 | 言語・論理・構造
1月30日朝刊より

パリ・セーヌ川の中州、シテ島にある荘厳な石造りの裁判所。藤生好則さん(72)は「参審員の中で、娘が被害者から、我が子と同じ1人の人間に変わっていくのを感じた」という。文部省職員だった娘の朱美さん(当時25)は95年10月、派遣先のパリの自宅アパートで殺害された。男性2人が起訴され、1人に禁固10年、主犯とみられていた男性は証拠不十分で無罪。夫妻は軽すぎると感じたものの「参審員にあれだけ真剣に考えてもらった結果だから」と納得できたという。

好則さんは、裁判員制度と被害者参加は「コインの表裏」で、どちらも欠くことはできないものだと考えている。「第三者の目があることで、被害者も被告も自分の言うことが社会に通用するかどうかを意識するようになる。裁判に神はいないのだから、少しでも多くの目で被害者と被告の姿勢を見て、判断してもらうしかない」


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日本では、被害者参加制度と裁判員制度が5ヶ月違いで実施されることになった。この両者はそれぞれ沿革を異にし、論理的に「コインの表裏」となっているわけではないが、このメタファーには非常に含蓄がある。それは、裁判制度に多元的な視点を持ち込むという意味においてである。裁判に神はおらず、そのために人間は神を作ってきた。それが、「初めに言葉があった。 言葉は神と共にあった。 言葉は神であった」という新約聖書の一節に示されるとおり、閉じた言語空間の確立であった。この閉鎖的な神は、人間の瞬間的な洞察力や、それを表現する語彙力といった定義不能なものを排除してきた。そして、法廷の中で「構成要件・違法性・責任」という刑法の構造で対象を捉えた途端、その特権的な地位に立った者は、神の目を獲得した。被害者参加制度と裁判員制度には、この幻想やフィルターを破壊しようとする契機がある。

刑事裁判とは、単に起訴状に書かれている行為を被告人が行ったか否か、単にそれを確定するゲームの場である。白黒つける勝負の場においては、検察官も弁護士も勝負師であり、人を殺す覚悟がなければ死刑の求刑などできない。このような割り切りは、あくまでもこれが閉じた言語空間のシステムであり、数学的な人工言語の体系だからこそ可能となったものである。そこでは、被告人は内的逡巡などしてはならず、捜査官は攻撃されるべき対象であるとの一元的な世界が確立している。しかしながら、本来の世界は、その閉じた言語空間の外にある。人が人生として生きる時間は、数字で測定できない。「懲役10年」という数字は、単なる数字として見ればそれだけであるが、「その時に生まれた子どもが小学4年生となっているだけの期間」と言えば、急にリアルになる。それは、殺された者が生きられなかった時間を表すものであり、刑罰=国家権力による人権侵害としての懲役の時間ではない。すなわち、人間と人間とを結びつける根源的なものとしての、苦しみや悲しみを自ずから示すような時間である。

法律の専門家から述べられる両制度への反対論の多くは、閉じた言語空間を維持できないことへの危惧に端を発するものである。しかし、一元的な視点を前提に構築された言語体系よりも、多元的な視点に耐え得るだけの言語体系のほうがより強靭であることは言うまでもない。これまでの刑事裁判では、「捜査官の作文の捏造」の恐ろしさばかりが強調されてきたが、これはすべての言語は作文であるという言葉の恐ろしさに気付いていないが故の恐れである。開かれた言語空間においては、実際には交わされていない会話が交わされたことになり、実際に交わされた会話が交わされていないことになる。あるいは、実際にいない人物がいたことになり、実際にいた人物がいないことになる。これらの事実はすべて嘘ではなく、すべてが真実のつもりで述べられている以上、それは矛盾していることにおいて真実である。被害者も被告人も、自分の言うことが社会に通用するかどうかを意識するようになるメリットがあるのであれば、それは法律の専門家が心配しているようなデメリットを上回って余りある。