犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東京都江東区 女性殺害事件・無期懲役判決

2009-02-19 21:29:42 | 時間・生死・人生
東京都江東区のマンションで昨年4月、会社員の東城瑠理香さん(当時23)が殺害され、遺体が切断されて捨てられた事件で、東京地裁は18日、殺人罪などに問われた星島貴徳被告(34)に対し、無期懲役の判決を言い渡した。検察側は、切断されて捨てられた女性の肉片を大型ディスプレーに映し出すなどして残虐性と社会に与えた衝撃を積極的に立証し、死刑を求刑していた。また、公判では遺族が死刑を強く求めていたが、判決は「矯正の可能性がいまだ残されており、特に酌量すべき事情がない限り死刑とすべき事案とまでは言えない」と結論づけた。判決の後、遺族は涙で目を腫らして無言で法廷を後にしたが、星島被告は一度も遺族と目を合わせることはなかったとのことである。

この裁判は、裁判員制度の導入を目前に控えた我が国の刑事裁判において、裁判員が死刑と無期懲役の境界線上にあるケースにどう対応するのかという点から注目を浴びてきた。そして、この判決に対しては、例によって社会科学の視点からの解釈が優勢となっている。いわく「裁判員制度が始まれば、厳しい被害感情をあらわにした主張に強く反応する裁判員も出てくる。感情に流されて不当に量刑が重くなりすぎないか、裁判所には公平で適正な訴訟指揮が求められる」。「『劇場型裁判』に陥ることがないのか、裁判員制度は大きな課題を突きつけられている」。このような傍観者的・評論家的な視点からは、被害者の殺害による死、そして加害者の死刑による死という2つの死の生々しさが全く伝わってこない。この生々しさとは、もちろん物質的な遺体写真のことではなく、人間存在の絶対的消失に対する戦慄と畏怖のことである。

この裁判においては、被告人による遺体損壊の残虐さを強調するために、凄惨な写真がスクリーンに映し出されるなどし、検察側の手法に疑問の声も上がっている。ここでは、裁判員に与える影響と被害者参加人に与える影響が混同されている節もあるが、両者の問題は全く異なる。それは、2人称の死と3人称の死の決定的な差異であり、2人称の遺体は遺体の名で呼ばれるべきものではない。裁判員の問題は、いわゆる「グロ画像」への耐性のことであり、最高裁も心のケアなどのシステム作りを進めている。これに対して、被害者参加人の問題は、これまで共に人生を生きており、これからも共に人生を生きるものと信じており、一緒に生活し、信頼し合い、愛し合い、お互いに名前を呼び合ってきた、世界に一人しかいない「他でもないその人」が、魂が抜けて人格を否定された状態で、被告人の罪を裁くためだけに利用されていることに対する張り裂けそうな苦しみのことである。赤の他人である裁判員に配られた死体写真をすべて取り上げて、抱きしめて元に戻したくなることは、被害者参加人にとってあまりに常識的な心情である。

今後の裁判では、検察側が被害者の誕生から成長をスクリーンで紹介し、いかに犯行が許されないものであったかを視覚的に立証することが増えるものとされている。この点についても、裁判員が過度に感情に流されることはないのか、裁判員制度の課題であると言われている。しかしながら、専門家は本当の難しい問題を正面から見ようとはせず、いつも無意識のうちに逃げようとする。刑事裁判のテーマである起訴状記載の実行行為は、あくまでも法律の言語によって人為的に切り取られたものに過ぎず、その周囲における人間存在の深淵が消えることはない。ゆえに、スクリーンに映し出されるものは、「他でもないその人」の一生であり、存在であり、人生であって、間違っても肉体ではなく、ましてや肉片ではない。死刑と無期懲役とを分けるものは、法律論的には、単に被告人の犯行の悪質性や冷酷さである。しかし、死体と死は異なるものであり、よって死刑を死体によって語ることはできない以上、最後に被告人の死刑と釣り合うものは、形而上の人間存在だけである。