犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

竹内薫・竹内さなみ著 『シュレディンガーの哲学する猫』

2009-02-10 23:29:38 | 読書感想文
Chapter10 大森荘蔵の章 -過去は消えず、過ぎ行くのみ- より

p.292~

ウィトゲンシュタインが、いったん<意味>を<表象>という名のコピーと考えてしまうと、今度はその表象の意味(つまり表象の表象)が必要になり、さらには、その表象の表象の意味(つまり表象の表象の表象)といった具合に無限のコピーが必要になってしまう、と警告するのと同じように、大森荘蔵は、僕たちの知覚風景の表象など存在しない、と断言する。僕たちは、その風景をじかに見ているのであって、風景の表象を見ているのではない。ここで行われているのは、一貫して、「存在←→表象」という、お子様ランチの旗のごとく月並みな二元論の常識を覆し、「存在←」という一元論を確立しようという哲学的な試みなのである。あるいは、「存在/表象」という一種の<重ね合わせ>による統一的な描像といったほうがいいかもしれない。

同様なことは、いま見ている知覚風景だけでなく、過去の思い出や想起についても云える。過去を思い出すのは、過去のシーンを表象として見ているのではなく、過去の出来事をじかに見ているのである。「過ぎ去った日々や亡くなった人々のことが時折思いもかけず心によみがえる。そのときそうした思い出や面影は何か過去の形見が残されたもののように思われる。それらの日々や人々はもはや二度と戻らないが何かその影のようなものがわれわれの手元に残されている、といったように。ただその影によってわれわれはかろうじて過ぎ去り失われた時とつながっているのだ、と。つまり今われわれに残されているのは、過去そのものではなくその過去の写しなのだと感じるのである」。

大森は続ける。「しかし、では死んで久しい亡友を思い出すときもその人をじかに思い出しているのか、と問われよう。私はその通りであると思う。生前の友人のそのありし日のままをじかに思い出しているのである。その友人は今は生きては存在しない。しかし生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれるのである。その友人を今私の眼や肌でじかに『知覚する』ことはできないが、私は彼をじかに『思い出す』のである。そのとき、彼の影のような『写し』とか『痕跡』とかがあらわれるのではなく、生前の彼がそのままじかにあらわれるのである。『彼の思い出』がかろうじて今残されているのではなく、『思い出』の中に今彼自身が居るのである」(「記憶について」『流れとよどみ』産業図書)。

今は亡き友人が、その本人が、今、ここに居る。僕は、この一節を読む度に、死んでしまった祖父母や伯母や叔父や友人たち、あるいは、自分になついていた動物たちのことを思い出し、なんだか目頭が熱くなる。ここには、陳腐な素朴実在論と薄っぺらの二元論的認識論にはない、本物の思想がある。僕は、大森哲学のルーツは、ウィトゲンシュタインやクワインに負うところが大きいのは当たり前だとして、存在論的にはアインシュタインの相対性理論の時空概念の影響や量子論の世界観が決定的だと考えている。大森哲学は、一見、平易な言葉で書かれており、誰にでも理解できるかのようだが、その奥は深い。大森哲学は、何げない言葉を遣いながら、実は、僕たちの日常の世界を見る目を根本から変えさせるほどの大きな主張をしているのであり、その表面的な易しさの下には、千尋の深海が僕たちの哲学的沈潜を待ち受けている。


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哲学とは、説明の技術の巧拙を他者と競い合う種類のものではない。哲学とは、生きることそのものであり、人生そのものである。人は筆舌に尽くしがたい苦しい経験をすればするほど、哲学的思考が洗練されてくるとは、人生とは何と残酷なものであろうか。