犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

吉野源三郎著 『君たちはどう生きるか』

2009-02-03 21:26:10 | 読書感想文
p.50~

君は、水が酸素と水素からできていることは知っているね。それが1と2の割合になっていることも、もちろん承知だ。こういうことは、ことばでそっくり説明することができるし、教室で実験を見ながら、ははあとうなずくことができる。ところが、つめたい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水をのんでみないかぎり、どうしたって君にわからせることができない。だれがどんなに説明してみたところで、そのほんとうの味は、のんだことのある人でなければわかりっこないだろう。同じように、生まれつき目の見えない人には、赤とは、どんな色か、なんとしても説明のしようがない。それは、その人の目があいて、実際に赤い色を見たときに、はじめてわかることなんだ。― こういうことが、人生にはたくさんある。

むかしから、こういうことについて、深い知恵のこもったことばをのこしておいてくれた、偉い哲学者や坊さんはたくさんある。いまだって、ほんとうの文学者、ほんとうの思想家といえるほどの人は、みんな人知れず、こういう問題についてたいへんな苦労をつんでいる。そうして、その作品や論文の中に、それぞれ自分の考えをそそぎこんでいる。だから君も、これからだんだんにそういう書物を読み、りっぱな人々の思想を学んでいかなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵は ― やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きてみて、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちのことばの真実も理解することができるのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、けっしていかない。

だから、こういうことについて、まず肝心なことは、いつでも自分がほんとうに感じたことや、真実、心を動かされたことから出発して、その意味を考えていくことだと思う。君がなにかしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもごまかしてはいけない。そうして、どういうばあいに、どういうことについて、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。そうすると、あるとき、あるところで、君がある感動を受けたという、くりかえすことのない、ただ一度の経験の中に、そのときだけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが、ほんとうの君の思想というものだ。ここにごまかしがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、いったりしても、みんなうそになってしまうんだ。


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塩谷文部科学相は3日、今年の4月から実施される小中学校の新学習指導要領で道徳教育が重視されることに絡み、「『心を育む』ための5つの提案」を発表した。その提案の中には、「校訓を見つめ直し実践する」「家庭で生活の基本的ルールをつくる」といった項目も含まれており、文科省と日教組の伝統的な対立の構図が蒸し返されそうな要素もある。しかしながら、子供達が学校裏サイトやプロフでの陰湿ないじめの中で心身共に疲れ果て、人生の最初の時期に取り返しのつかない人間不信を植え付けられている状況下において、伝統的なイデオロギー対立は有害である。愛国心教育の是非などの大論争は、目の前の生徒が抱える問題を置き去りにしてきた。

今回の「5つの提案」の1つとして、「先人の生き方や本物の文化・芸術から学ぶこと」が挙げられている。上記の吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』は、1937年(昭和12年)の発刊であり、山本有三編纂にかかる『日本少国民文庫』の最後の配本であった。戦後民主主義においては、「戦前に戻る」と言えば最も忌み嫌われる行為とされてきたが、これだけではあまりに平板である。戦後60年を経ても現代にそのまま当てはまるような文化は、時代を超えて普遍である。このような本を広く読んでいた昭和12年の子供と、ネットいじめで疲れ切っている現代の子供とでは、考える力に差が生じるのも当然である。もちろん、ネットというシステムの善悪の問題ではなく、すべての道具は使いようである。ネットやブログは、「いつでも自分が本当に感じたことから出発してその意味を考えていく」ためには、この上ない有用な手段ともなりうる。