犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『誰も守ってくれない』

2009-02-14 20:52:20 | その他
正義を実現し、悪を叩き潰す瞬間の高揚感は、人間にとって何とも言えない喜びである。正義は必ず勝ち、悪は必ず滅びる。この人間の生きがいが、人類の長い歴史を作り上げてきた。ある時代の人間社会は、犯罪者の一族を連帯責任で磔で処刑することによって正義を実現していた。またある時代の人間社会は、その反動として権力の糾弾を絶対的正義とし、関係ない者まで大集合して凶悪犯罪者を支援し、警察権力の打倒を目指してきた。そしてこの映画では、マスコミやネットが発達した現代社会の病理として、当事者でない者が被害者遺族に勝手に感情移入し、それが暴走することの危険性を描いている。さらには、加害者の家族へのバッシングによる理不尽な苦しみを丁寧に描く一方で、被害者の家族の背負い続ける深い苦しみにも目を向けている。この映画のテーマは多岐にわたり、論点も複雑に絡み合っており、一言で感想が語りにくい。単純な勧善懲悪では追いつかない、現代人が抱える正義の概念の混乱をそのまま描いている映画である。

近時は巨大掲示板への書き込みやブログ炎上による逮捕も珍しくなくなったが、ネットによる特定の者へのバッシングは、単なる愉快犯以上の恍惚感をもたらす。それは、単純な損得の問題ではなく、正義感の発現に端を発し、自己実現をもたらすからである。人間はいつの時代も楽しいことが大好きであるが、それに正しさが加われば鬼に金棒である。そこでは、不正義の側の者が嫌がれば嫌がるほど正義が実現されることになるため、攻撃はエスカレートし、歯止めが効かなくなる。「歪んだ正義」と表現されることもあるが、もともと人間の正義とはこのようなものである。その意味では、正義はいつも歪んでおり、暴走しなくても十分に危ない。明らかに強者から弱者に対するいじめですら、強者は「いじめられる側に原因と責任がある」との能書きを欲し、正義の側に立とうとする。善悪二元論において善に立つことが大好きな者は、悪を追及して改めさせることが大好きであり、そのために悪役を欲する。そして、いずれ悪役は「役」ではなく、れっきとした「悪」となる。

自然科学の分野で注目された複雑系のパラダイムは、政治経済や人間社会全般にまで適用されつつある。高度情報化社会における価値観の多様化は、相互の主義主張の並立を認め、寛容的な相互理解を促すものとして肯定的に捉えられてきた。しかしながら、正義はその定義において唯一絶対的かつ排他的であるため、善悪の対象の大混乱をもたらしてしまった。今の世の中では何が善で何が悪なのか、善悪が複雑に入り組んでいて非常にわかりにくい。しかも、ほんの少しのきっかけによって、善悪は簡単に入れ替わる。本来人間に備わっている正義感の強さは、ここで出口を失う。この不安を払拭し、自分が常に善の地位に立っていることを確認するためには、世間の多数派において悪とされている者を叩き続けなければならない。凶悪犯人が逮捕されれば、本人だけでなく家族をバッシングする。それによって、その家族が精神的に追い詰められて自殺したのであれば、自らを反省するのではなく、しっかり監視していなかった警察をバッシングする。かくして、正義は永久に正義である。

この映画に対しては、被害者の家族に感情移入する近年の我が国の傾向の中で、あえて加害者の家族に感情移入したものだとする評価もあるようである。しかしながら、マスコミの報道やネット社会が人間の手を離れて暴走することの危険性が描かれていることからもわかるように、これは単純な二元論ではなく、もはや価値観の相違と相互理解の問題を超えている。人間は、自分以外の誰かに感情移入しながらでなければ、自分の立ち位置を確定できない。その意味で、他者への感情移入は存在論の必然であり、誰に感情移入して主義主張を展開するかはさして重要でない。それ以前に、人間が善悪の評価を対象にあてはめるためには、事前に善悪の観念を知っていなければならない。それは、自らは善であると知ることによってそれは善となり、自らを悪と知ることによってそれは悪となるということである。従って、正義が正義であるならば、あえて不正義を糾弾して叩き潰す必要はない。「罪を憎んで人を憎まず」という格言には様々な解釈があるが、このような正義の危険性を述べたものであるならば、非常に的を射ている。