犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

齋藤孝・山折哲雄著 『「哀しみ」を語りつぐ日本人』

2009-02-22 17:41:32 | 読書感想文
p.17~
私はいま、日本人がこれまで何百年という歳月の中で培ってきた感情が、急速に枯渇しているという印象をもっています。たとえば「哀しみに浸る」という言葉もあるように、哀しみという感情は、自分の心のなかに、液体のように貯めておくものだと思うんです。哀しみとは本来、じっくりと浸るべきものなのに、そこに浸るための十分な時間 ― すなわち独りの時間がうまくもてない。

p.21~
「ムカツク」という一語だけをもって、自分の心の“本当のところ”を探る道具とするには、あまりにも心許ない気がします。それは譬えていうなら、これから版画で板を彫り込もうとするときに、肝心の彫刻刀が一種類しか手元にない状態。要は、丸太の刃先の彫刻刀だけでは繊細なラインを彫り込むことができませんから、作品の仕上がり、この場合は感情の表出が、非常に大ざっぱになるわけです。

p.32~
たとえば仏教では、哀しみと苦しみが、人間にとってもっとも重要な感情だと説いています。また、かのイエス・キリストの立場になれば、おそらくは「貧しき者」と同じ意味で「哀しみ深き人、汝は天国に近い」という台詞が出てきそうな気がします。かたや日本の『古事記』に登場する英雄たちや女性たちの多くは、哀しみの感情に身をまかせて愛をうたっている。こうした文学表現は『万葉集』にも共通しています。万葉的な恋を表す言葉は「こひ」でした。万葉歌人はしばしば、この言葉に孤独の「孤」と「悲」という漢字をあてていました。

p.45~
あまりの不幸に崩れ落ちてしまうような“悲しみ”ではなく、慎みという心の張りを保った“哀しみ”の感情。しかしながら、いまやこうした“感情の起伏に流されまい”というような「張り」が失われつつあることと、現代人の哀しみの希薄化とは、何か連動するところがあるのかもしれません。
(「哀」は「口」+「衣」の会意兼形声文字で、思いを胸中におさえ、口を隠してむせぶことを表す。一方、「悲」は「非」+「心」の会意兼形声文字で、心が調和を失って裂けることを意味する。)

p.120~
哀しみの感情といったものも、自分と相手の身体が融け合うような感覚が基本になっているような気がしてなりません。人間が何かに共感するということは、それが身体で融け合える、言い換えれば心が一つになれるという感覚を抱くことなんだと思います。しかし厳密にいえば、そういった感覚をもちながらも、心は完全に一つになるのではありません。だから「孤悲」のように、独りで哀しみを自分のなかに貯め込むことになるわけですね。


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この本は、2003年(平成15年)の出版である。この年には、齋藤孝・明治大学教授による『声に出して読みたい日本語』シリーズがベストセラーになり、ちょっとした日本語ブームが起きていた。脳の活性化という不純な動機に支えられながらも、言葉のリズムを感じ、その美しさを感じる日本語ブームは、なかなか好ましいものであった。「私の言語の限界は私の世界の限界である」「語り得るものを記述することによって語り得ぬものが暗示される」というウィトゲンシュタインの断章にも通じるところがある。

これに対して、昨年からの漢字ブームには、この時のような深さがない。普段使わないような難しい漢字は、単なる「うんちく」のレベルであり、他人に一目置かれたいという動機が存在するのみである。1つの言葉を自分に対して噛み締めて味わうのではなく、漢字が読める自分を評価してくれる他人の目が主目的になっている。単に麻生首相の誤読に始まり、漢字能力検定協会の不祥事に終わってしまうような雰囲気である。

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