犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

愛する者を喪った現実を受け入れないということ

2009-02-11 00:12:24 | 時間・生死・人生
「愛する者を喪った者は、すぐにその事実を受け入れることができない。しかし、時間が経つにつれて、段々とその事実が受け入れられるようになってくる。従って、周囲の者には、その立ち直りに協力することが求められる。もちろん立ち直りのスピードには個人差があり、急がせてはならないが、1日も早い立ち直りに向けて理解を示すことが必要である」。このような言い回しを耳にすることは多い。この善意の励ましには、疑われていない大前提がある。それは、主観と客観の単純な二元論である。すなわち、ある者の死という客観的な事実が動かぬものとして存在しており、それをなかなか受け入れることができない主観との間にズレが生じている、との捉え方である。ここには、人間は誰しもいずれは現実を受け入れる時が来ざるを得ないのであり、時間の経過によってズレは修正されるとの強い確信がある。ゆえに、いつまでも愛する者を喪った現実を受け入れないことは端的に誤りであり、「いつまでも悲しんでいると死者が浮かばれない」との励ましも一般的に広く聞かれるところである。

しかし、それほどまでに現実と言うならば、「現実を受け入れられないこと」も、れっきとした1つの現実ではないのか。一刻も早い立ち直りを求めている周囲の者が、「現実を受け入れられないという態度を表明している」という遺族の現実を受け入れられないだけではないのか。ある者の死という事実が、動かぬものとして存在するためには、死の瞬間という時間を固定しなければならない。すなわち、死者の死が客観的に存在するためには、その後に生きている全ての者において、主観的にもその死が受け入れられていなければならない。ある者の死という客観的な現実が動かぬものとして存在しているならば、それはどの時間の現実においてもそのように存在していなければならず、時間の経過によって変わる種類のものではないからである。ところが、主観と客観の二元論は、ここに人間の時間性を援用する。そして、本来は死を受け入れられない状態など一時でも認めるのは背理であるにもかかわらず、安易にその状態を想定し、時間の経過をもって問題を先送りする。

人間の時間性とは、物理的な時間の流れの中に人間が生まれてくるということではなく、その者が生きる時間が人間の時間だということである。すなわち、時間とは、1人の人間が生まれた瞬間から死ぬ瞬間までの間のことである。すべての時間は今であり、現在であり、現在は一瞬である。そして、人間の生には限りがあり、永遠に生きることはできない。逆に言えば、すべての過去は永遠に消えないため、人間は永遠の中に生きることができる。これは、死者が存在したという過去は、遺された者がさらに死者となっても永遠に消えないという意味である。自分自身の死の時を見据えて、その時までの時間を誰にもかけがえのない自己のものとして生きること、ハイデガーはこれを「本来的時間性」と呼んだ。過去を過ぎ去ったものとして忘却し、目の前のものを現前化していて生きている限り、「いつまでも悲しんでいると死者が浮かばれない」との文法は説得力を持つ。これに対し、一瞬が永遠であり、永遠が一瞬である絶望を知った者にとっては、このような励ましは意味を持たない。

ハイデガーは近代社会に生きる者の多くが自分自身の死から目を背けており、「非本来的自己」を生きているのだと断じた。自分は今日明日死ぬことはない、自分の死は遠い先のことだとの自信がある者においてのみ、「時間の経過によって必ず悲しみから立ち直れるはずだ」との確信が生じる。そして、「一生悲しみ続けるなどとんでもないことだ」「いつまでも立ち直れないのでは幸福になれない」との善意から、遺された者への励ましが広く行われることになる。このような励ましを拒絶することは、自ら不幸を好むということではない。人生の絶望を絶望と知った者が、美辞麗句で彩られた安易な希望を厳然と拒否する覚悟を示すということである。これは、幸福や立ち直りの拒否でありながら、幸福や立ち直り自体の拒否ではない。安易な希望の先には絶望があり、安易な幸福の先には不幸があると知りながら、それを求める者はいないからである。「なぜ存在者があるのか、そしてむしろ無があるのではないのか」。これは、共に同じ地平に立って探求すべき問いであって、慰めや癒しによって解答を与える問いではない。