犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(2)より

2009-02-07 18:13:04 | 実存・心理・宗教
1月27日朝刊より

「ビデオは、犠牲者を、紙の上の名前から、一人の人間にする。彼女が亡くなったことが、どれほど他の人々を悲しませたか、それを示した」。被告の裁判でビデオを使ったスティーブ・イプセン検事は言う。それに、弁護側が反発した。「被告を処刑するかどうかの検討に、必要以上に刺激的な証拠を導入しており、判決は破棄されるべきだ」。

87年、メリーランド州の老夫婦が殺された強盗殺人事件の裁判をめぐって、連邦最高裁は、ある「違憲」の判断を示した。「被害者がどれほど素晴らしい人であったか、遺族がどれほど悲しんだかは、罪と何の関係もない。陪審員を過度に刺激し、証拠に基づいた判断から遠ざけるだけだ」。

しかし、連邦最高裁は4年後の91年、別の事件の裁判で、遺族の意見陳述について「被害者が一人のかけがえのない人間だったことを示すためのものだ」と述べて、違憲の判断を事実上、修正した。


***************************************************

日本では裁判員制度の開始を目前に控えて、死者の生前のビデオが裁判員にどのような影響を与えるのか、という点が主に議論されている。しかしながら、一人の人生がある日突然中断させられたことと、裁判員制度が上手く軌道に乗るか否かという政策論とは本来別のものである。死者の生前のビデオは、まずは被告人本人によってしっかりと見られなければならない。これが罪を裁かれるということであり、近代刑法よりも遥かに古い人類の倫理の歴史の示すところである。この倫理を無視した人間の制度は、長年のうちには綻びを見せる。

善を善と認め、悪を悪と認めるものは、時と場所によって変わる法律ではない。何よりも自らの無言の声であり、全人生を賭して考えるに値する倫理の問題である。取り返しのつかない過ちを犯してしまい、身の置き所がなく、全てが情けなくて涙も出ず、存在することそのものに極まりの悪さを感じ、自己否定への葛藤が心の奥深いところに突き刺さるという心の動きは、刑が重いか軽いかという損得の問題とは一線を画する。このような道義心、良心の呵責に自ら立ち向かうことは本当に苦しい。それは、自らは自由意思によって過ちを犯さなかったこともできたことを知るからであり、ゆえに表面だけの反省のポーズを示しても単なる自己欺瞞でしかないことを知るからである。この現実をありのままに捉える限り、法廷における死者の生前のビデオは、裁判員への影響を実証的に論じる以前に、何よりも被告人によって見られなければならないことがわかる。

「刑事裁判とは単に被告人の行為が構成要件に該当するか、違法性があるか、有責性があるかを判定する場である」、このような構図に逃げ込むことは楽である。自らが犯した過ちに向き合うという過程が省かれるのであれば、残るは厳罰を叫ぶ被害者の感情をどこまで組み入れてやるか、という政策論が残るのみだからである。しかしながら、いかに近代裁判が法と道徳を峻別したとしても、人間の良心までが消失したわけではない。人は罪を犯したとき、何としても自分に有利な言い訳を考えて、自分で自分に嘘をつく動物である。他方で、人は罪を犯したことを苦しみ、その罪を自己と他者に認めずに苦しみ、あるいはその罪を自己と他者に認めて苦しむ存在である。これは生物の中でも人間だけに与えられた能力であり、ゆえに人間の条件である。もしも近代刑法の理念が完璧であるならば、死者の生前のビデオの上映を恐れる必要はない。