犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(1)より

2009-02-04 22:56:54 | 国家・政治・刑罰
1月26日朝刊より

「娘は殺されるために生きてきたんじゃない」。 昨年12月8日、名古屋地裁。3人の被告を見据えた磯谷富美子さん(57)の声が法廷に響きわたった。娘の利恵さん(当時31)は07年8月、ネット上の「闇サイト」で強盗仲間を募って知り合った3人に拉致され、殺害された。その後半に富美子さんは検察側証人として出廷していた。

法廷に掲げられた大きなスクリーンに、利恵さんの生前の写真が次々と映し出されていく。生後まもなく父親に抱かれている姿、クリスマスケーキのろうそくの火を吹き消している姿、成人式に晴れ着ではしゃぐ姿 ―。

被害者の無念や、遺族の悲痛をあるがままに伝えられるようにするとともに、5月から始まる裁判員制度で、市民から選ばれる裁判員に効果的に訴えることも意識した立証。「いろいろ説明するより写真を示すほうが迅速、正確でわかりやすい」。証言は2時間に及んだ。富美子さんは、遺影だけでなく、一人の人間として利恵がどういう子だったのかを裁判官に見てもらいたかった。それができてよかった」と話す。


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法廷で死者の生前の姿をスクリーンで示すことについては、従来の刑事司法の大原則から激しい反対論が表明されている。このようなプレゼンテーションは、単に遺族の感情的な腹いせであり、法廷が復讐や報復の場になってしまうとの懸念である。しかしながら、この種の論争は、実際にはその焦点が噛み合っていない。被害者の無念や、遺族の悲痛をあるがままに伝えたいという心の動きは、その表現形式を模索して激しくもがき続ける。これは復讐や報復の感情とは明らかに異なり、ましてや法治国家の枠内の厳罰感情とは異なる。この中で、しかるべき適正な罰が死刑であるとの結論が自ずと出たのであれば、それは罪と罰の償いの論理の示すところに過ぎない。この論理を見据える限り、法廷のスクリーンほど正確なものはない。

「腹いせ」「報復」「復讐」という言語は、人間の名付けがたい繊細な心情に対して、1つの単純な構図を与えてきた。「愛する娘を殺されるとはどのようなことか」という問いに対しては、「あなたも自分で娘を産んで育てて殺されてみてください」と答えるのが最も正確である。従って、そのような経験のない者にとっては、この先は行き止まりである。多くの場合、人間は自己や他者のマイナスの感情には耐え続けることができず、悲しみや苦しみは特定の形に解釈されて収められるしかない。愛娘を殺された経験のある者が、他者にその苦しみを伝えるために、「胸が張り裂ける」「掻きむしられる」「地獄に突き落とされる」といった比喩的表現を用いたならば、その先は聞く者の解釈に委ねられる。そして多くの場合、人がこのような感情に留まり続けることは、日常生活に支障を生ずる。ゆえに、国民の社会生活を維持するルールである法律論においては、この心情に正面から向き合うことができなかった。これが、刑事司法の大原則によって「厳罰感情=報復・復讐」というわかりやすい構図が描かれてきた理由である。

視点を個人の人生ではなく社会全体に置き、社会を客観的なルールによって説明し尽くそうとするならば、発生した問題に対してはすぐに答えが出されなければならない。これは、臭い物にはすぐに蓋をして片付けたがるということでもある。すなわち、苦しみに対してじっくりと苦しむことをせず、悲しみに対してはしっかりと悲しむことを大切にせず、癒しと立ち直りばかりが賞賛されるという傾向である。ここにおける客観的視点とは、自らはその中に引き込まれることのない安全地帯であり、それに特定の意味や枠組みを与える評論家・解説者の視点である。被害者の裁判参加に対する「厳罰感情=報復・復讐」との解釈も、従来の刑事司法の大原則から与えられた1つのものの見方に過ぎない。このような解釈によっても、人間の無力感、不安感、信じられない気持ち、絶望的な気持ち、やり切れない気持ちそのものが消失するのでない限り、法廷のスクリーンはありのままの現実を映し出す。