犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(3)より

2009-02-08 19:22:27 | 国家・政治・刑罰
1月28日朝刊より

大阪地裁の横田信之判事(52)は、裁判官と研究者でつくる勉強会で「被害者の感情はどう量刑に反映させるか」という命題について議論したことがある。被害の大きさを量刑へ反映させることでは多くの意見が一致したが、「感情」の反映については考え方が異なった。「大きく考慮したほうがいい」という積極論の一方、「感情の違いで量刑が動くと不公平になる」という慎重論もあったという。

そこに加わる裁判員は、被害者の感情をどう受け止めればいいのか。横田判事は、「模擬裁判でも裁判員によって見方が分かれることが多い」と認めたうえで、むしろ「幅広い意見が集まるなかでバランスが取れていくのではないか」と期待する。


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近代刑法の枠組みは、人間の感情を徹頭徹尾合理化したシステムである。そこでは、外形的な構成要件の客観性を前提に、それに対応した故意が想定され、さらには動機をその周辺に位置づけている。ここでは、「罪を犯さないこと」の感情は完全に脱落している。実際の世の中においては、殴られた瞬間の相手方の痛みを想像する者は、暴行罪を犯すことができない。また、バッグを奪われた瞬間の悔しさ、悲しさ、腹立たしさ、唖然とした気持ちを想像する者は、引ったくりの窃盗罪を犯すことができない。同じく、大金を騙し取られた事実を知った時の脱力感、やるせなさ、人間不信、惨めさを想像する者は、振り込め詐欺を犯すことができない。このような犯罪は、他者における複雑な感情に対する想像を全く欠落させ、自らの欲望に満たされた者のみが行うことができる。

人間が、お互いに「嫌なことをしない」という不文律を自発的に守っている限り、国家による法律の手を借りる必要はない。社会のルールを守るという行動につき、決められているから従っているのか、それとも他者の気持ちを想像して行っているのか、この差は大きい。例えば、電車内のマナー1つをとってみても、自己を他者に置き換え、他者を自己に置き換える能力の違いによって、その不快感のリアルさは格段に異なってくる。ここには、ルールを叫べば叫ぶほど、そのルールの根拠が見えにくくなるという逆説がある。「腐敗した社会には多くの法律がある」との格言が示すとおり、他者に共感する能力のない人間が多い社会においては、結果的に多くの法律やルールが必要になる。共同体の中で生きる能力とは、他者の感情を想像する能力のことであり、その前提として自らの感情を分析的に捉える能力のことでもある。

近代刑法の罪刑法定主義は、ある行為が正しいか否か、許されるか否か、二者択一で明確に線引きする方法を採用した。そこで必要なことは、与えられた情報としての条文や判例をよく読むことであって、自らの頭で考えることではない。ましてや、法を破ると自分はどんな気持ちになるのか、周囲はどんな気持ちになるのか、その感情を掘り下げることではない。しかしながら、実際の世の中において大多数の人々が犯罪を禁忌するのは、条文や判例の知識によるものではなく、他者の痛みに対する避けがたい共感と実感によるものである。ここで「共感」とはまさに感情の共有のことであり、「実感」とはまさに現実的な感情のことである。そして、ここにおける感情とは、理性との二元論において下位に置かれるそれのことではなく、人間の全身的な倫理を支えるそれのことである。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(2)より

2009-02-07 18:13:04 | 実存・心理・宗教
1月27日朝刊より

「ビデオは、犠牲者を、紙の上の名前から、一人の人間にする。彼女が亡くなったことが、どれほど他の人々を悲しませたか、それを示した」。被告の裁判でビデオを使ったスティーブ・イプセン検事は言う。それに、弁護側が反発した。「被告を処刑するかどうかの検討に、必要以上に刺激的な証拠を導入しており、判決は破棄されるべきだ」。

87年、メリーランド州の老夫婦が殺された強盗殺人事件の裁判をめぐって、連邦最高裁は、ある「違憲」の判断を示した。「被害者がどれほど素晴らしい人であったか、遺族がどれほど悲しんだかは、罪と何の関係もない。陪審員を過度に刺激し、証拠に基づいた判断から遠ざけるだけだ」。

しかし、連邦最高裁は4年後の91年、別の事件の裁判で、遺族の意見陳述について「被害者が一人のかけがえのない人間だったことを示すためのものだ」と述べて、違憲の判断を事実上、修正した。


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日本では裁判員制度の開始を目前に控えて、死者の生前のビデオが裁判員にどのような影響を与えるのか、という点が主に議論されている。しかしながら、一人の人生がある日突然中断させられたことと、裁判員制度が上手く軌道に乗るか否かという政策論とは本来別のものである。死者の生前のビデオは、まずは被告人本人によってしっかりと見られなければならない。これが罪を裁かれるということであり、近代刑法よりも遥かに古い人類の倫理の歴史の示すところである。この倫理を無視した人間の制度は、長年のうちには綻びを見せる。

善を善と認め、悪を悪と認めるものは、時と場所によって変わる法律ではない。何よりも自らの無言の声であり、全人生を賭して考えるに値する倫理の問題である。取り返しのつかない過ちを犯してしまい、身の置き所がなく、全てが情けなくて涙も出ず、存在することそのものに極まりの悪さを感じ、自己否定への葛藤が心の奥深いところに突き刺さるという心の動きは、刑が重いか軽いかという損得の問題とは一線を画する。このような道義心、良心の呵責に自ら立ち向かうことは本当に苦しい。それは、自らは自由意思によって過ちを犯さなかったこともできたことを知るからであり、ゆえに表面だけの反省のポーズを示しても単なる自己欺瞞でしかないことを知るからである。この現実をありのままに捉える限り、法廷における死者の生前のビデオは、裁判員への影響を実証的に論じる以前に、何よりも被告人によって見られなければならないことがわかる。

「刑事裁判とは単に被告人の行為が構成要件に該当するか、違法性があるか、有責性があるかを判定する場である」、このような構図に逃げ込むことは楽である。自らが犯した過ちに向き合うという過程が省かれるのであれば、残るは厳罰を叫ぶ被害者の感情をどこまで組み入れてやるか、という政策論が残るのみだからである。しかしながら、いかに近代裁判が法と道徳を峻別したとしても、人間の良心までが消失したわけではない。人は罪を犯したとき、何としても自分に有利な言い訳を考えて、自分で自分に嘘をつく動物である。他方で、人は罪を犯したことを苦しみ、その罪を自己と他者に認めずに苦しみ、あるいはその罪を自己と他者に認めて苦しむ存在である。これは生物の中でも人間だけに与えられた能力であり、ゆえに人間の条件である。もしも近代刑法の理念が完璧であるならば、死者の生前のビデオの上映を恐れる必要はない。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(1)より

2009-02-04 22:56:54 | 国家・政治・刑罰
1月26日朝刊より

「娘は殺されるために生きてきたんじゃない」。 昨年12月8日、名古屋地裁。3人の被告を見据えた磯谷富美子さん(57)の声が法廷に響きわたった。娘の利恵さん(当時31)は07年8月、ネット上の「闇サイト」で強盗仲間を募って知り合った3人に拉致され、殺害された。その後半に富美子さんは検察側証人として出廷していた。

法廷に掲げられた大きなスクリーンに、利恵さんの生前の写真が次々と映し出されていく。生後まもなく父親に抱かれている姿、クリスマスケーキのろうそくの火を吹き消している姿、成人式に晴れ着ではしゃぐ姿 ―。

被害者の無念や、遺族の悲痛をあるがままに伝えられるようにするとともに、5月から始まる裁判員制度で、市民から選ばれる裁判員に効果的に訴えることも意識した立証。「いろいろ説明するより写真を示すほうが迅速、正確でわかりやすい」。証言は2時間に及んだ。富美子さんは、遺影だけでなく、一人の人間として利恵がどういう子だったのかを裁判官に見てもらいたかった。それができてよかった」と話す。


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法廷で死者の生前の姿をスクリーンで示すことについては、従来の刑事司法の大原則から激しい反対論が表明されている。このようなプレゼンテーションは、単に遺族の感情的な腹いせであり、法廷が復讐や報復の場になってしまうとの懸念である。しかしながら、この種の論争は、実際にはその焦点が噛み合っていない。被害者の無念や、遺族の悲痛をあるがままに伝えたいという心の動きは、その表現形式を模索して激しくもがき続ける。これは復讐や報復の感情とは明らかに異なり、ましてや法治国家の枠内の厳罰感情とは異なる。この中で、しかるべき適正な罰が死刑であるとの結論が自ずと出たのであれば、それは罪と罰の償いの論理の示すところに過ぎない。この論理を見据える限り、法廷のスクリーンほど正確なものはない。

「腹いせ」「報復」「復讐」という言語は、人間の名付けがたい繊細な心情に対して、1つの単純な構図を与えてきた。「愛する娘を殺されるとはどのようなことか」という問いに対しては、「あなたも自分で娘を産んで育てて殺されてみてください」と答えるのが最も正確である。従って、そのような経験のない者にとっては、この先は行き止まりである。多くの場合、人間は自己や他者のマイナスの感情には耐え続けることができず、悲しみや苦しみは特定の形に解釈されて収められるしかない。愛娘を殺された経験のある者が、他者にその苦しみを伝えるために、「胸が張り裂ける」「掻きむしられる」「地獄に突き落とされる」といった比喩的表現を用いたならば、その先は聞く者の解釈に委ねられる。そして多くの場合、人がこのような感情に留まり続けることは、日常生活に支障を生ずる。ゆえに、国民の社会生活を維持するルールである法律論においては、この心情に正面から向き合うことができなかった。これが、刑事司法の大原則によって「厳罰感情=報復・復讐」というわかりやすい構図が描かれてきた理由である。

視点を個人の人生ではなく社会全体に置き、社会を客観的なルールによって説明し尽くそうとするならば、発生した問題に対してはすぐに答えが出されなければならない。これは、臭い物にはすぐに蓋をして片付けたがるということでもある。すなわち、苦しみに対してじっくりと苦しむことをせず、悲しみに対してはしっかりと悲しむことを大切にせず、癒しと立ち直りばかりが賞賛されるという傾向である。ここにおける客観的視点とは、自らはその中に引き込まれることのない安全地帯であり、それに特定の意味や枠組みを与える評論家・解説者の視点である。被害者の裁判参加に対する「厳罰感情=報復・復讐」との解釈も、従来の刑事司法の大原則から与えられた1つのものの見方に過ぎない。このような解釈によっても、人間の無力感、不安感、信じられない気持ち、絶望的な気持ち、やり切れない気持ちそのものが消失するのでない限り、法廷のスクリーンはありのままの現実を映し出す。

吉野源三郎著 『君たちはどう生きるか』

2009-02-03 21:26:10 | 読書感想文
p.50~

君は、水が酸素と水素からできていることは知っているね。それが1と2の割合になっていることも、もちろん承知だ。こういうことは、ことばでそっくり説明することができるし、教室で実験を見ながら、ははあとうなずくことができる。ところが、つめたい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水をのんでみないかぎり、どうしたって君にわからせることができない。だれがどんなに説明してみたところで、そのほんとうの味は、のんだことのある人でなければわかりっこないだろう。同じように、生まれつき目の見えない人には、赤とは、どんな色か、なんとしても説明のしようがない。それは、その人の目があいて、実際に赤い色を見たときに、はじめてわかることなんだ。― こういうことが、人生にはたくさんある。

むかしから、こういうことについて、深い知恵のこもったことばをのこしておいてくれた、偉い哲学者や坊さんはたくさんある。いまだって、ほんとうの文学者、ほんとうの思想家といえるほどの人は、みんな人知れず、こういう問題についてたいへんな苦労をつんでいる。そうして、その作品や論文の中に、それぞれ自分の考えをそそぎこんでいる。だから君も、これからだんだんにそういう書物を読み、りっぱな人々の思想を学んでいかなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵は ― やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きてみて、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちのことばの真実も理解することができるのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、けっしていかない。

だから、こういうことについて、まず肝心なことは、いつでも自分がほんとうに感じたことや、真実、心を動かされたことから出発して、その意味を考えていくことだと思う。君がなにかしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもごまかしてはいけない。そうして、どういうばあいに、どういうことについて、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみるのだ。そうすると、あるとき、あるところで、君がある感動を受けたという、くりかえすことのない、ただ一度の経験の中に、そのときだけにとどまらない意味のあることがわかってくる。それが、ほんとうの君の思想というものだ。ここにごまかしがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、いったりしても、みんなうそになってしまうんだ。


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塩谷文部科学相は3日、今年の4月から実施される小中学校の新学習指導要領で道徳教育が重視されることに絡み、「『心を育む』ための5つの提案」を発表した。その提案の中には、「校訓を見つめ直し実践する」「家庭で生活の基本的ルールをつくる」といった項目も含まれており、文科省と日教組の伝統的な対立の構図が蒸し返されそうな要素もある。しかしながら、子供達が学校裏サイトやプロフでの陰湿ないじめの中で心身共に疲れ果て、人生の最初の時期に取り返しのつかない人間不信を植え付けられている状況下において、伝統的なイデオロギー対立は有害である。愛国心教育の是非などの大論争は、目の前の生徒が抱える問題を置き去りにしてきた。

今回の「5つの提案」の1つとして、「先人の生き方や本物の文化・芸術から学ぶこと」が挙げられている。上記の吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』は、1937年(昭和12年)の発刊であり、山本有三編纂にかかる『日本少国民文庫』の最後の配本であった。戦後民主主義においては、「戦前に戻る」と言えば最も忌み嫌われる行為とされてきたが、これだけではあまりに平板である。戦後60年を経ても現代にそのまま当てはまるような文化は、時代を超えて普遍である。このような本を広く読んでいた昭和12年の子供と、ネットいじめで疲れ切っている現代の子供とでは、考える力に差が生じるのも当然である。もちろん、ネットというシステムの善悪の問題ではなく、すべての道具は使いようである。ネットやブログは、「いつでも自分が本当に感じたことから出発してその意味を考えていく」ためには、この上ない有用な手段ともなりうる。