犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(4)より

2009-02-15 21:27:11 | 言語・論理・構造
1月29日朝刊より

裁判員制度の開始にあたって、刑事弁護を手がける弁護士の間には「裁判員が被害者と被告を『善と悪』の構図でとらえてしまい、被告の『推定無罪』の原則がおろそかにされるのではないか」「裁判員が被害者の訴えに同情して、被告側の弁護に反感を抱くのではないか」といった心配の声が根強い。若手弁護士は「被告は、どのような謝罪をすればいいのか想像できていないために、余計に遺族を傷つけていたように感じた」と話す。


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善と悪の構図は、権力者の鶴の一声で決まるものではなく、ましてや世論調査による多数決で決まるものでもない。善悪の区別は、善は自らを善と知ることにより、悪は自らを悪と知ることにより、自ずと生じるものである。これは、善人と悪人という人間の属性のことではなく、行為の属性の問題である。しかも、これは他者から与えられる義務ではなく、自らの本能的な欲求としてのみ沸き上がってくる種類のものである。「すべて私が悪いんです。許してもらおうとは思いません。どんな罪でも受けます。亡くなった方の命には代えられません……」。死者や遺族を前にして、このような言葉が述べられるのであれば、いかなる凶悪犯人の言葉であろうとも、聞く者はこれを瞬間的に「善」と感じる。自ら犯した罪に向き合うことは、自己否定の動きだからである。もちろん、これは善であるがゆえに言いにくい言葉であり、実際には言えないことが多い。

これに対して、「死者の側には重大な落ち度がある」「被告人は既に社会的制裁を受けており刑罰は必要ない」といった言葉も、非常に言いにくいものである。これは、言いにくさの方向性が逆を向いている。他者を顧みず、自己中心の弁解を正当化することについては、人間はなぜかこれを後ろめたいことだと感じる。そして、聞く者はこれを瞬間的に「悪」と感じる。また、ことの重大さを理解する能力に欠け、奥行きのない二次元の軽薄な認識であると感じる。従って、一般社会においては、死者や遺族を前にしてこのような言葉を述べる行動は、厳に慎まれる。誰に教えられたわけでもなく、人は「言ってはならないこと」は「言ってはならないこと」だと知る能力があるからである。これに対して、法廷の中では、この善悪のルールが意図的に逆転させられている。これは、人は内的倫理よりも欲望を優先することがあり、そのためには外的な道徳による規制が必要であり、しかもその道徳と法は峻別されて客観性を獲得したことに基づくものである。

一般社会と隔絶された法廷の中においては、それに応じた善と悪の構図が生じている。そして、それに基づいた特有の形の問いが生じてくる。そして、法廷内における善悪のルールの逆転を維持するために、制度を運営する側においては、被害者を刑事裁判のシステムに参加させたくなかった。また、被害者がこのような空間において逆恨みに遭い、二次的被害を受けることも目に見えていたため、被害者も裁判に参加しようとしなかった。裁判員制度と被害者参加制度の鍵を握るのは、この構造をフィクションと見抜く力である。それは、被害者と被告人の言葉の間の沈黙を読む力に等しい。犯罪行為に伴う両側における無数の名付けられない感情は、本来は沈黙として示されるしかなく、言葉は対象を実体化し、下手な言葉はあらぬ実体を作る。そして、謝罪の言葉には自分自身を騙すための保身が混入し、反省の弁は言ったそばから嘘になり、沈痛な表情は他者を意識して無理に作られる。このような中で、裁判員は切迫感と絶望感をどの場面で感じ取ることができるのか。刑事弁護を手掛ける弁護士が悩むべきはこの点である。