犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

香川県立中央病院 受精卵取り違え事件

2009-02-24 00:03:22 | 実存・心理・宗教
1.自分の受精卵を別の患者に移植させられた女性の心情(推測)
院長らが3人並んで頭を下げて、「深くお詫び申し上げます。再発防止に努めます」というのを聞いて、あまりにバカバカしすぎて笑ってしまいました。勝手に努めて下さい。こんなことは誰でも言えるでしょう。いや、言っちゃいけないでしょう。私はこれまで、無理解な人達が少子化問題について適当なことを言うたびに、大声で叫んで泣きたくなる気持ちを抑えながら、傍目には前向きに生きてきました。幸せそうな子供連れの家族を見ると、ムラムラと殺意すら沸いてくることもありました。こういうことはあまり人前では言えないのですが、これは紛れもない事実です。もちろん永久に実行に移されることはないので、この程度のことは許してくれるでしょう。私は病院からのあまりに突然の説明に、これまで積み上げてきたものが足元から崩れ落ちました。立ち上がれるとか立ち上がれないとか、そんな生易しい話ではなく、立ち上がるための上下左右の感覚すら失った状態です。これまで抑えてきた殺意が、行くあてもなく、私の周りをウロウロしながら自らの運命を苦しめています。「天から授かった我が子」などと言えば、人工的な体外受精の場面には相応しくない言葉だと非難する人もいるでしょう。しかし、我が子が天からの授かり物でなければ、誰が不妊治療をしてまで我が子の生命の誕生を求めるでしょうか。

2.別の患者の受精卵を移植されて中絶した女性の心情(推測)
私は、自分のお腹の中で新しい命が育っているのを毎日楽しみにしていました。いずれ生まれてくる我が子は、私の生きがいでした。現在の日本では、片や人工妊娠中絶の件数が1年で27万件にも及び、その横で私達のように不妊治療に励んでいる人がいるのですから、矛盾した状態にあることは誰しも知っています。しかし、一人の人生は一度きりであり、数字で統計的に測れるものではありません。社会や制度の矛盾の問題は、他の誰でもないこの私が、この人生において我が子を生み育てるということとは何の関係もありません。私はそれだけに、里子を育てている方に対しては、言葉に表せないほどの尊敬の念を持っております。その反面、我が子を虐待したり「赤ちゃんポスト」に置き去りにする人は論外として、安易に妊娠と中絶を繰り返す若い人達には激しい怒りを感じています。芽生えた命をこちらの都合で勝手に処分することは、生命倫理的には殺人にも等しいものと考えておりました。私は今回、自分の人生の中で、たった一人でこの矛盾を抱え込むことになってしまいました。お腹の子が我が子ではないというだけで中絶をした私は、人殺しの汚名を着てしまったのでしょうか。世論が病院を責め、私に同情してくれればくれるほど、この唯一の事実が絶えず私を責め立ててくるのです。

3.受精卵を取り違えたかも知れない医師の心情(推測)
今回の最大の問題は、昨年11月に人工妊娠中絶をした後、謝罪を繰り返してきたにもかかわらず、2月になって裁判を起こされてしまったことです。もし裁判にならなければ、このようにマスコミに大きく報道されることもなく、病院や私自身の信用や社会的評価が下がることもなかったわけですから、事後の対応の不手際が非常に残念に思われます。病院にはこれまで約1000件の実績があり、私も人工授精の作業をほぼ1人で担ってきましたが、この実績まで否定するように言われるのはどうにも腑に落ちません。どの業界でもそうだと思いますが、この世の中の仕事というものは、マニュアル通りにやっていたらパンクします。マニュアルはあくまでも建前であり、理想論のようなものです。「作業台には1つのシャーレだけしか置いてはならなかったのではないか」「容器を色分けしたり蓋と本体の両方に名前を書いておかなかったのか」との正論を述べている方、あなたは自分の会社でどれだけ忠実にマニュアルに従って仕事をしていらっしゃるのですか。とりあえず、今の私にできることは、「気の緩みです。注意不足でした。厳しさが足りませんでした。非常に反省しています」と繰り返すことだけです。61歳にもなって、このようなことで足を掬われて経歴に傷が付くのは痛いですが、何とか信頼の回復に努め、イメージダウンを解消したいと思います。

4.中絶させられた子供の心情(推測)
私は誰でしょうか。結局、現代科学の最先端を尽くしても、受精卵の取り違えはあったかなかったかは確定できなかったようです。そうだとすれば、判明したとか判明しないとか、そのように他人事のように言っているのはどこの誰ですか。もし、担当医師が受精卵の取り違えをしていたのであれば、その受精卵の持ち主である両親の子供がこの私です。それでは、もし取り違えがなかったならば、私は果たしてこの私だったのでしょうか。逆に、もし担当医師が受精卵を取り違えていなかったのであれば、その受精卵の持ち主である両親の子供がこの私です。それでは、もし取り違えがあったならば、私は果たしてこの私だったのでしょうか。人々は善意からこう言うでしょう。もしも私が生まれてから、真実が判明してしまった場合の苦しみに比べれば、今回は最善の処置であったと。物心付いたときに、私がこのような人生を背負っていることがわかって愕然とすることを想像すれば、最初から生まれないほうが幸福であったと。しかし、この世に一度も生まれることがなければ、私には幸福も不幸もあり得ません。人間として生まれなかったことによって私と語ることができるこの私、一体私は誰なのでしょうか。受精卵を取り違えたかも知れない先生、せめてこの私に代わって、この問題を考え続けてはくれないでしょうか。

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