犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

夏目漱石著 『思い出す事など』より

2011-09-29 23:56:08 | 読書感想文
p.176~
 病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑かな春がその間から湧いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。
 したがって、出来栄の如何はまず措いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため、閑に強いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然と漲ぎり浮かんだ天来の彩紋である。


p.186~
 平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣さえした事がない。その心根を糺すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。
 今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌なる酸素が地上の固形物と抱合してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球の表面に瓦斯のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。

p.217~
 物理学者は分子の容積を計算して蚕の卵にも及ばぬ(長さ高さともに1ミリメターの)立方体に1千万を3乗した数が這入ると断言した。1千万を3乗した数とは1の下に零を21付けた莫大なものである。想像を恣まにする権利を有する吾々もこの1の下に21の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
 形而下の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともと首肯くだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき明暸な知識が、吾人の内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。

p.234~
 今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承れば、小憎しい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして憚かるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。
 「自我の主張」の裏には、首を縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、自らぎごちなく感じた。


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 夏目漱石は『吾輩は猫である』の執筆中、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の英訳本と格闘しており、以降の著作にはニーチェの影響が多分に表れていると聞いたことがあります。但し、これは漱石がニーチェから何かを得たということではなく、ニーチェの「超人思想」が漱石の神経衰弱をさらに苦しめていたようです。

 漱石の前期の思想である「自己本位」と晩年の思想である「則天去私」の関係については、同じものであるとも対立するものであるとも聞いたことがあります。いずれにしても、近代的自我の確立という価値に苦しめられ、暗中を模索した結果として、漱石の著作には「ニーチェの言葉」が裏側から表れているように思います。ニーチェは弱い男であり、多病な人であり、孤独な書生であるにもかかわらず、なぜ現代社会を行き抜く実用的な言葉を語れるのか、私にはよくわかりません。

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