犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

増村裕之著 『交通事故過失割合のすべて』

2011-09-26 23:53:08 | 読書感想文
p.16~

 加害者の一方的な過失のみで発生する交通事故はほとんどありません。実際には、加害者・被害者双方に過失があり、その結果として事故が起きるケースが大半なのです。こういった場合は、加害者だけに損害額を負担させるのは明らかに不公平です。「過失相殺」とはこの不公平を解消するもので、被害者と加害者の「過失割合」(過失の程度)に応じて、当事者間で損害賠償責任を負担しあうという制度です。

 たとえ加害者が酒酔い運転で交通事故を起こした場合であっても、被害者が交通規則に違反していれば、過失相殺がなされ、被害者に対する賠償額が減額されることになります。交通事故によるトラブルをスムーズに解決するためには、交通事故の発生から解決にいたるまでの流れを把握しておく必要があります。そして、「過失割合」が、どのような場面で問題になるのか、頭に入れておきましょう。

 まず、交通事故が発生してしまったら、負傷者の救護や危険防止の措置を講じるなど事故現場での対応を速やかに行うとともに、警察と保険会社に連絡しなければなりません。ここで注意しなくてはならないのが、その場での安易な示談交渉は絶対にしないということです。警察が過失割合を決めることはありませんが、警察の実況見分の結果で過失割合が左右されることになります。それ以前に不正確な割合で譲歩してしまうと、損害の公平な分担ができず、さらにはトラブルの種になってしまう場合もあるからです。


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 これも私の狭い経験からですが、「交通事故現場では先に謝ったほうが悪くなる」というトラブル回避の知恵を忠実に守ったがゆえに、問題がこじれて拡大した場面を多く見てきました。被害者にとっては、「加害者の第一声が自己弁護ではなく謝罪であったならば、感情的な対立は起きなかった」との論理が不可避的です。他方で、加害者においては、「謝罪したら謝罪していたで弱みに付け込まれていたはずだ」との不信感が心の奥底で生じます。

 言葉が抽象概念を実体化するものである限り、事故の瞬間にはあるべき過失割合が客観的に確定していなければならず、人間は後からその正しい割合を探求することを強いられます。ゆえに、この場面で公平と不公平の概念が人間を捉えることになります。「事故を起こした点につき道義的に謝罪すること」と「過失の存在を認めること」の区別は、事後的に理屈を積み重ねた結果の妥協の産物としてのみ可能であり、人間の実際の言葉はそのような区別をなし得ないものと思います。

 交通事故による加害者とは誰か、被害者とは誰かという問いに実務的に答えようとすれば、自動車安全運転センター(警察署所管の法人)が作成する交通事故証明書の「甲」が加害者であり、「乙」が被害者であるということになります。これは、「加害者と呼ばれたほうが加害者となる」という命名の問題であり、ここから命名に対する反発が生じ、「被害者のほうにも落ち度がある」という形での公平・不公平論が可能となります。紛争の早期の解決を志向する技術論が、問題を複雑にする例の1つだと思います。

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