犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

渡辺淳一著 『鈍感力』より

2011-10-02 23:55:26 | 読書感想文
P.213~ 「会社で生き抜くために」より

 ここに1人の男性、K君がいたとして、彼はある会社に勤めています。いわゆる平均的なサラリーマンですが、あるときうっかりして、仕事上のミスを犯してしまう。しかも間の悪いことに、たまたま上司の虫の居所が悪く、みなの前でかなり強く叱られます。まわりにいた仲間は、そのあまりの激しさに驚き、「あれでは落ちこんで、明日、仕事を休むのではないか」と心配します。
 ところが、そんなみなの心配をよそに、K君は翌朝、いつもの時間に現れて、昨日、叱られたことなどまったく忘れたように、「おはよう」と笑顔で挨拶します。こうしたK君をどう見るか。よくいうと、あれだけ怒られたのにほとんど響かず元気なのだから、タフで立派、ということになるでしょう。しかし同時に、上司に厳しく叱られても響かない、「鈍い奴」ともいえそうです。

 これに対して、別のN君は同じように叱られても、K君のように気分の転換がうまくできず、家に帰っても延々と考え、1人で悩み続けます。それどころか、「俺は駄目だ、どうにもならない奴だ」と自らを責め、「いまさら平気な顔をして会社に行けない」と思い詰め、翌日は休むかもしれません。さらにはそれが尾を引き、1日休んだのが2日になり、3日になり、ずるずる休むうちに、会社を辞めることになりかねません。
 この鈍感君と敏感君、2人を比較した場合、圧倒的に強くて、頼り甲斐があるのは鈍感君のほうです。彼なら、これからなにごとがあっても逞しく生き抜き、将来、会社の幹部にもなれるかもしれません。しかし敏感君は、このあとも絶えず挫折して、そのうち親しい友達も敬遠して去っていくかもしれません。


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 自ら死を選んだ者に対する批判として、「病気で生きたくても生きられない人達が大勢いるのに自分から命を捨てるなど贅沢だ」という典型的な論理があります。私も学生時代は単純にそう考えており、今でも論理の筋は正しいと思います。しかしながら、過労自殺やパワハラ自殺の裁判を何件か目の当たりにするうちに、上記の論理は人生経験の浅い者の抽象論であるとの認識のほうが強くなってきました。

 会社組織の中で役割を与えられ、経済的な責任を負うということは、会社内外の利害関係や権力関係、さらには欲望や虚栄心が絡み合う現場の真っ只中で、常に理不尽な緊張を強いられるということです。そこでは、物心ついた時から積み上げてきた何かが一気に崩れ落ちる場面が不可避的に生じるものと思います。このような状況においては、組織人の責任・社会人の責任という概念を突き詰めて行けば行くほど、「自ら死を選びたくなる」というよりも、「責任を取って死を選ばなければならない」との論理が人間に突きつけられるように感じます。

 人間が言語の限界に達して死を選ぶ直前の言語を拾ってみれば、「心が折れる」という表現が見つかりますし、その手前には「胆力」という表現が見つかります。そして、ピンチの場面で命を落とさないための胆力の強さ、メンタルの強さの内実を探ってみると、それは「強さ」とは別方向の「鈍感さ」が支配的であるように思います。人が死を選ぶまでに思い詰めないためには、自分自身を責めず、他人に責任を押し付け、表面上は謝っても心底からは謝らないという姿勢が合目的的であり、「自分以外は全員バカ」との自信が精神衛生上最も好ましいという事実です。

 物事を重く受け止めず、軽く考える鈍感さを身につけるということは、他者の心の痛みにも慣れる効果を生じるように思います。すなわち、想像力が鈍くなり、他者の悲しみにも動揺しなくなり、当然ながら人の死にも慣れるということです。自殺者に対する典型的な批判、すなわち「生きたくても生きられない人達のことを考えろ」という論理が転倒している感じるのは、裁判においてこのような人間社会の現実を否応なく見せつけられたときです。他者の命の重さを真剣に考える繊細さを備えた人ほど、自身の命の危機には弱く、結果的に逆の事態が生じるのがこの世の常だと感じます。

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