犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

水村美苗著 『日本語が亡びるとき』より (2)

2013-02-08 23:18:53 | 読書感想文

p.217~

 たしかなのは、夏目漱石が『文学論』を書くことによって、日本語で〈学問の言葉〉で書くことの限界ともどかしさに直面したであろうことである。たしかなのは、また、当時すでに『吾輩は猫である』などを書き評判となっていた漱石が、日本語で〈文学の言葉〉で書く自由と快楽を味わったであろうことである。自分が書いたものを読みたい読者がいるという、書く人間が感じうる最高の喜びを、どこかで知ったであろうことである。

 『文学論』の失敗を契機に漱石は大学という場を去り、朝日新聞に入社して一人の小説家として〈文学の言葉〉を書いて食べていくことになる。東京帝国大学の講師という地位を棄てた漱石の動きはドラマティックなものではあったが、実は、近代日本の知識人の典型的な動きを象徴するものでもあった。近代日本においては、優れた人材ほど大学を飛び出して在野で書くという、構造的な必然性があったのである。

 当時の日本の知識人が大学の外へと飛び出したのには、さらにもう一つ別の動機があった。それは、大きな翻訳機関でしかない大学に身をおいていては、自分が生きている日本の〈現実〉を真に理解する言葉をもてないということにほかならない。実際、学問=洋学の場では、日本とは何か、日本にとっての西洋とは何か、アジアなどというものが果たして存在するのか、そもそも近代とは何かなど、日本人が日本人としてもっとも切実に考えねばならないことを考える言葉がない。

 自分の〈現実〉――それは、過去を引きずったままの日本の〈現実〉である。いうまでもないが、そのような〈現実〉はたんにモノとしてそこに物理的に存在しているわけではない。人間にとっての〈現実〉は常に言葉を介してしか見えてこないものだからである。西洋語を学んだ当時の日本人にとって、当時の日本の〈現実〉は、西洋語からの翻訳ではどうにも捉えられない何かとして意識され、そうすることによって、初めて見えてきたものであった。


***************************************************

 「日本語が公用語のままでは日本はグローバル化した世界で不利である」と言われれば、そうかも知れないと頷くよりほかないと思います。「日本人の全てが英語でコミュニケーションできるようにならなければ、海外からの一流の人材は集まらず、日本はこれから国際的に取り残されてしまう」などと言われれば、やはりその可能性を受け止めざるを得ないと感じます。そして、ここで実証的な反論や現状の分析を試みても、議論の的は定まらないと思います。

 英語の公用語化の是非という論点を設定するならば、賛成派が圧倒的に有利になるのは間違いないと思います。「時代に取り残される」「世界で生き残れない」「今やそんな甘いことを言っていられる状況ではない」との論理は、現状認識に関する独特の優越感に加え、高圧的な脅しの要素も含むからです。そして、この論理の強弱関係を外から眺めてみると、私は日本人であることを離れた一個の人間として、何とも言えない寂しさを感じ、心の中を風が吹き抜けるような感覚になります。

 人間にとっての〈現実〉は常に言葉を介してしか見えてこないものであり、かつ自分が生きている日本の〈現実〉を真に理解する言葉が存在しないことの苦悩を指摘する上記の分析は、非常に示唆に富んでいると思います。グローバルなビジネスの論理は、「俳句や短歌といった日本文化は尊重すべきである」などと述べ、英語の公用化は日本文化を廃れさせるものではないと主張するでしょうが、問題はこの部分ではないとの感を持ちます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。