犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

横浜地検川崎支部・容疑者逃走事件(1)

2014-01-08 22:26:16 | 国家・政治・刑罰

 かつて刑事司法の場にいた者として、今回の件に携わっていた検察関係者や警察関係の気持ちを勝手に想像し、適当なことを書きます。


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 マスコミは今回の出来事を警察の失態と捉え、世論もこれを前提として非難の矛先を定めるが、どうも釈然としない。モヤモヤする。県警のお偉方も、反省と再発防止の姿勢をアピールしているが、心底本気だろうか。もしそうであれば、公務員倫理というものは、本物の人間の倫理ではない。考え抜かれた人間の倫理は、このような安易な善悪の構図に瞬間的な違和感を発するからだ。

 今回の件で最大の失態を犯したのは、逃走した容疑者に決まっている。容疑者は知人と共謀して、面識のない通行中の女性会社員を車に連れ込んで監禁し、強姦した上で現金を奪ったとして逮捕されたものである。そして、自分がどれだけ極悪非道なことをしたのか、その意味をこれっぽっちも理解していない。反省など全くしていないと宣言したのが、この逃走という行為である。

 今回の出来事が、過去に強姦被害で深い傷を負った女性に及ぼす影響は計り知れない。人間は、他の人格を自らの欲望の手段として使い捨てにし、ここまで鈍感になれるものなのか。逃走劇のドタバタにスポットが当たれば、最初の監禁・強姦・強盗被害の絶望が消えてしまう。血を吐くような手記にしたためられた思いを踏みつけて、一体どれだけ人を馬鹿にすれば気が済むのだろう。

 再発防止の要請なるものは、容疑者が逃げないことによって実現する。すなわち、自らの行為を反省し、相応の罰を受けるべきこと理解すれば、逃走という結論には至らない。あまりに当たり前のことであり、実際には望めない道徳のようであるが、これが本筋である。このスタートを見失えば、善悪の基本が崩れてしまう。究極の性悪説は、いかなる刑罰をも無意味とする道理である。

(続きます。)

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