犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

堀井憲一郎著 『若者殺しの時代』

2012-05-25 23:53:07 | 読書感想文

p.22~

 僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の2種類しかないと思っている。騙す人。騙される人。これで全部だ。どっちかを取るしかない。でも、世間のみんなはそうはおもっていないということを知った。みんなその中間のポジションを取りたがっているのだ。無茶だとおもう。騙されないためには、人を騙すしかない。

 人を騙すのは、言葉ではない。関係性だ。気持ちのやりとりで相手の感情を自由に動かせる状況を作っておくだけだ。人を騙すときに会話は必要ない。会話なんかしてはいけないのだ。ペテンとは、ペテンにかかってくれる状態に相手を巻き込んでおいて、あとはただ通告するだけである。そこに会話は存在しない。


p.86~

 NHKの朝の連続テレビ小説が描いているのは、女の半生である。視聴率が高かった時代、何を見ていたかというと、戦争の苦労である。大東亜戦争が始まって、戦争に負けて、戦後苦労するが、最後には報われるという物語を見ていたのである。主人公は戦争を生き延びる。視聴者も、戦争を生き延びた人たちだ。戦争中に死んだ人は主人公にならないし、戦争中に死んだ人はテレビドラマを見られない。

 ただ戦争の描かれかたは変わっていった。1960年代はまだ、戦争は災害のように描かれていたが、80年代から90年代になると、「いけないこと」として描かれた。戦争はいけないから避けるべきだというのが当然のことのように扱われ、主人公とその周辺は「この戦争は間違った戦争だ。止めなければいけない」と考えだす。口に出したりする。不思議なドラマである。主人公は戦後の日本がどうなるかを察知していて、その視点から戦争を眺めているのだ。一種のタイムスリップドラマである。


p.151~

 携帯電話を持ってるかぎり、どこにいようと、あらゆるところとつながっている。そのために否応なく自分という個を見つめさせられてしまう。たとえば、自分のお誕生日に、いったいいくつメールが来たか。そのメールの数で「いま存在する世界の中で、あなたの誕生日を覚えていて、祝ってくれる気持ちのあったすべての人の数」が示されるのだ。逃げようがない。

 携帯電話以前では、もっと留保できるエリアが広かった。たまたまその日逢えなかったからだろう、と勝手に自分を納得させられた。ゆるやかだった。いちいち、自分の内側と対面する必要がなかった。あきらかにそのほうが幸せだ。いつどこでも、すべてのところにつながる可能性があるというのは、身も蓋もなさすぎる。便利にはなった。しかし人間関係が豊かになったわけではない。


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 コラムニストが引いてしまう思考の補助線は、いかにも不真面目で、真実ゆえに社会の役に立たず、真実ゆえに残酷であり、救いようがなく、肩の力が抜けるものだと思います。風刺や毒舌によって善悪を明らかにするタイプの社会の斬り方と、誰が悪いわけでもないことを前提とする補助線の引き方との違いは、間口の広さだろうと思います。賛成も反対もできない論理のほうが、その見かけに反して毒は強いと思います。

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