犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『ニーチェの馬』

2012-05-26 23:44:07 | その他

 人間の内心は映像化できませんが、その映像を見た者の内心に生じた状況によって、映像が人間の内心を示すことは可能だろうと思います。文章にも読解力を要するものと要しないものとが存在するように、映像についても作り手がそれだけの要素を凝縮していれば、これを見る際には読解力が試されます。但し、ほとんどの映像が印象操作の道具であるような環境に置かれていると、一義的であることが論理の限界だと信じる癖がついてしまうため、その逆が論理の限界であると認識するのは困難だと思います。

 ニーチェが1889年にトリノの広場で昏倒したという歴史的事実については、その原因が「諸説ある」と言われているとおり、一種の逸話・寓話となっているようです。「鞭打たれる馬に駆け寄って守った」との説明もあれば、「疲弊した馬を見て哀れみ馬にすがりついて泣いた」との説明もあり、あるいは「トリノの往来で騒動を引き起して警察官の厄介になった」とも言われ、どれも本当でどれも嘘だと思います。哲人であろうと凡人であろうと、人の心の内は謎であり、発狂の理由など本人もわからないと思います。

 この映画を見た私個人の感想ですが、「ニーチェの馬」というのは、苦しみでしかない単調な人生を超越すること(超人)の限界を具象化しているとの印象を持ちました。ニーチェの言葉を格言として何かを得ようとするならば、本来であれば、心が引き裂かれるような狂気に直面しなければ嘘だと思います。ニーチェが21世紀の日本を予言している訳はありませんが、現代の格差社会に即して言えば、神が死んだ後には「馬車馬のように働かされている人間」に対する狂気が残らなければならないと思います。

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