犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

嵐山光三郎著 『転ばぬ先の転んだ後の「徒然草」の知恵』

2012-05-22 23:59:24 | 読書感想文

p.19~

 私は、自分で忙しさを作り出すことによって怠惰な心をカバーしていたのではないか、と反問した。忙しいことが価値だと思うから、会社に働く人は、目前にある雑事の山をとりあえずやってしまう。目前のどうでもいい雑用ばかりに追いまくられ、肉体的に忙しい思いをすれば、とりあえず自分が何かをやったという気分になる。その疲労と充足感のみが自分を支えていた。

 と同時に、もっと別の「今日なさんと思ふこと」があるはずだ、と思い続けてきた。人は定年で会社をやめるとき、今まで会社のために一生懸命働いてきたけれど、はたしてそれは何であったのだろう」と思う。会社をやめたときに、初めて気づくのである。同じことを思う機会はあと1回あって、それは自分が死ぬ前である。「懸命になって駆け抜けてきた一生だったけれど、自分は今まで何をしてきたんだろう」。そういう思いが、胸をかすめてゆく。


p.75~

 俗世間から離れ、静かに世捨人としての暮らしを送っていると、自分は俗世間の雑事とは無関係だと慢心することがある。いかに草庵の生活を悠々と送っていても、そういうところにだって死というものは攻めてくるのだぞ、と兼好は説く。人は会社や組織や都会からドロップアウトすることはできても、自己の存在そのものからドロップアウトすることはできない。

 脱世間の果てには、一見、すばらしい世界がひらけているように思える。今いる会社をやめ、無欲無心になって清貧の日々を送る。こういう人は、ことあるごとに金銭や欲望の空しさを説くが、そのじつ、金銭には人一倍執着する。金銭がなければ生活ができないからだ。ドロップアウトとは年金でも入らぬ限り死に近い。

 兼好にも、そういった一面がみられ、私は、兼好の本質は金にも名誉にも執着心が強かったのではないかと思うのだ。だからこそ、兼好は、自己の本性と懸命に闘わざるを得なかった。無常から逃れるには、死しかないという現実にぶつかる。兼好自身ですら、これだけ世捨人に憧れながら、結局は世捨人になれなかった。


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 私も社会人として揉まれてきた中で、「雑事」「雑用」に対する人間の距離の取り方は、大体同じところに行き着くのだと気付きました。一方では、雑用を軽視するのはあるまじきことであり、真摯に雑用に取り組まない者は一流になれないという言い回しを耳にします。しかしながら、このような価値基準は、結局のところ雑用は乗り越えるべき一時の仮の仕事であると捉えており、雑用係で終わる人生を軽視し、そこに人間の器の差を求めているように思います。

 人は金銭がなければ死ぬしかなく、世を捨ててしまえば死ぬしかないという事実に直面しつつ、「雑事」「雑用」という概念に対して距離を取るならば、実態は逆でなければならないと思います。俗世間の雑事はまさに煩雑であり、これに真摯に取り組むべき価値を与えるのはいかにも恣意的です。他方で、どの時代でも世の中の仕組みを回しているのは日の当たらない縁の下の多数派の人々であり、その仕事は「雑事」「雑用」との命名を拒否すべきものと思います。

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