犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (その2)

2011-12-30 00:04:10 | 国家・政治・刑罰
 弁護士会からのDMやFAX、弁護士会の運営するメーリングリストにおいて、今年は「被害者」の文字が例年の10倍は見られたように思います。これは、「原発被害者相談」「原発被害者支援弁護団」などの事務連絡が連日行われていたためです。津波による被災者の支援と、原発事故による被害者の支援とでは、力の入れ方が全く違っていました。

 私は、原発の是非についての明確な意見を持つことができません。自然エネルギーへの転換を図ろうとすれば、人間の欲望の増大が科学技術の発達の歴史であったことを直視せざるを得ず、個々人のライフスタイルを変えざるを得ないからです。すなわち、東京電力に責任があろうとなかろうと、現実に電気が不足するならば、人間は一旦享受した便利な生活を捨てざるを得なくなります。これは、政治的な主義主張や住民投票に馴染まない問題であると思います。
 直ちに脱原発に踏み切るべきとの主張が、電力不足による経済の低迷について、少子高齢化・年金・雇用・福祉などの問題と結びつけて説得的に論じているかと言えば、私にはそのようには見えませんでした。原発が絶対安全ではないことはもとより当然であり、「安全神話」という単語はそれが崩れた時に初めて使用されるものです。私は、原発についての明確な意見はないにしても、FAXやメーリングリストで目にする脱原発の主張は急進的であり、この点には常時違和感を有していました。

 私が心を抉られるように感じたのは、震災後の脱原発派の色めき立ち方でした。大震災の直後、私はこの国の多くの人々と同じように、「こんなことしている場合か」という焦りと無力感に打ちひしがれました。その後も連日テレビに写る映像に唖然とし、死者と行方不明者の数字を夢の中の話のように聞いていました。この国の多くの人々のライフワークが取るに足らないものとなり、それまで積み上げてきたものが崩れ、被災地以外の多くの人々も実存不安に苛まれていたものと思います。
 そのような中で私は、福島原発の事故を受けて生気が漲り、実存不安とは全く無縁の世界で生き生きとしている一部の弁護士の姿を見せつけられました。それは、その人達のライフワークに合致する事態が目の前で生じ、それまで積み上げてきたものが生かされる時でした。弁護士の間では、過去の原発差し止め訴訟の請求を却下した裁判官が実名で槍玉に挙げられていました。さらに、そこから「原発被害者支援活動」への動きは非常に速く、これまでの弁護士会の「被害者支援活動」との違いが日々際立っていきました。

 私は原発を推進する思想を持っているわけではなく、脱原発論が唱える「人間の無力さ」「科学技術の奢り」「自然への畏怖」などの言葉は、字面としてはその通りだと感じます。しかしながら、原発被害者支援に奔走している弁護士は、私が知りうる範囲のことですが、「こんなことしている場合か」という震災直後の無力感を経ておらず、死者と行方不明者の数字に驚くこともなく、人間として基本的な部分が欠落しているうえ、あまりに生き生きし過ぎていると感じました。
 実際のところ、一口に原発被害者と言っても、一方では風評被害に苦しんでいる農家の方々がおり、ここでは「安全である」とのお墨付きをもらうための支援が必要となっています。他方では、安全性に敏感になりすぎて風評被害を起こしている側に位置する方々もおり、ここでは「危険である」との警告を発するための支援が必要となっています。これらの方々は相互に対立しますが、脱原発の署名を集めるという点においては、一律に「被害者」として団結・協力すべき矛盾を包含することになります。

 例年の10倍の「被害者」の文字が飛び交っているとは言っても、そのほとんどは原発関連であり、逆に従来の被害者支援活動に関する内容は明らかに減りました。時間が割けなくなったのだと思います。弁護士会の被害者支援活動は、「刑事裁判は被害者のためにあるのではない」ことを前提とし、被告人への厳罰の回避を主目的としていたことは公知の事実ですが、それを目の前で見せられると複雑な気分になります。

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