犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二編著 『少年犯罪被害者遺族』 第1場

2007-04-13 20:12:56 | 読書感想文
第1場 一生赦さないことを大切にしたい ― 武和光・るり子夫妻との対話

犯罪被害者が長きにわたって見落とされてきたのは、その声が社会に出てこなかったからである。そして、犯罪被害者が声を上げられなかった原因は、人間は言語を絶する体験を語ることができないからである。語り得ぬものは、語り得るものの中に示されるしかない。藤井氏が「対話」というスタイルをとったのは、被害者遺族の慟哭や絶望などを最も正確に伝える表現を模索した結果である。

家裁調査官は武夫妻に向かって、「家庭裁判所は親の悲しみや苦しみを聞きたいわけではないし、事実関係をどうこうするところではない。加害少年がこの先どうやって生きていけばいいかを考えるところだ」と述べている。この内容は全くその通りである。もしも「家庭裁判所は親の悲しみや苦しみを聞く場所である」と言ってしまえば、それは嘘になる。問題なのは、家裁調査官がその言葉を裁判所自身に向けたのではなく、被害者遺族に向けて語った点である。

家庭裁判所は親の悲しみや苦しみを聞く場所ではないということは、単に裁判所にはそのような能力がないということである。これは裁判所が自らを恥じる筋合いのものであって、被害者遺族に対して自慢する筋合いのものではない。少年法が遺族の感情を出す場をこの世から奪っていることは、特定の政策判断に起因する弊害である。法律万能主義は、このような結論を欠陥として認識するのではなく、絶対的な正義であるとして被害者遺族に押し付けようとする。

そもそも被害者遺族が感情を出したくなるのは、ことの起こりである最初の犯罪行為が欲望と感情にまみれたものであって、理性の対極にある行為だからである。そして、被害者がそのような感情的な犯罪行為の犠牲になったことが理不尽だからである。理不尽を正すということは、非理性的なものを理性によって正すことである。従って、遺族が感情を出すことは、論理的には理性的な行為として積極的に保障されなければならない。現在の裁判所のシステムは、法廷の威厳と秩序維持という体面を優先させることにより、論理の要請を曲げている。

武和光さんは、「加害者がどうなろうと関係ないのです。加害者の更生は社会の問題です。被害者個人の問題とは一切関係ない」と述べている。これは、法治国家の無力さを端的に突いた指摘である。法律は、人間の人生の苦しみも語れなければ、生死という最大の問題も語れない。哲学的な問題は哲学的な言語によって語るしかなく、法律的な言語は沈黙するしかない。少年審判には人間の人生を扱う力などなく、被害者遺族の悲しみや苦しみを聞くだけの力もないということである。

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1 コメント

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お邪魔します (imacoco)
2007-04-14 20:13:30
藤井くん が十代の頃書いた「おい!こら! 学校」と云う本が、デビュー作です。 元気で やられてるんでしょうか…
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