犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (6)

2013-03-22 23:24:51 | 読書感想文

p.171~

 人は言葉を聞くとき、何を言っているかだけでなく、言葉それ自体の動き、律動を感じている。どんなにたどたどしい発言にも真理を感じ、流暢な言葉であっても嘘を見る。人は皆、死者の言葉が、どんな律動をもっているかを知っている。私たちをふと訪れ、無声の声として顕われる静謐なる流れがそれだ。それは見えず、聞こえない。しかし、胸に衝動をもって迫りくる。

 私が存在するのは、私の努力によってではない。むしろ、私を私たらしめているのは、他者である。他者が、私たちの生をまったき者へと変貌させる。他者は、生者とは限らない。田辺元は、死者の哲学を論じながら、真実の語り手が自分一人ではないことをはっきり感じている。彼には病床の妻から耳にした言葉や、そこで見たもの、そして彼が我知らず口にした過去の言葉が、まざまざとよみがえってきただろう。


p.214~

 「健康な」人間が、病者にむかって「元気になって」と言う。発言者は、励ましのつもりだろうが、病者にはそうは聞こえない。元気になることが、関係を結び直す条件だと聞こえる。その言葉は、現実世界に戻ってくるには、「元気」になるほかないと、ほとんど暴力的に伝えているに過ぎない。それは、震災の被災者にむかって、感謝しているなら、その気持を金品で表せというのと同じく冷酷な言葉である。

 そうなると言葉がない、と言い返されるかもしれない。だが、見舞いに行って、どうして病者を励まさなくてはならないのだろう。どうして被災者を鼓舞するところから始めなくてはならないのだろう。ただ黙して、そばにいる、それだけで十分なのではないのか。話さなくてはならないと思い込んでいるのは見舞う者で、病者ではない。励まさなくてはならないと思いこんでいるのは、自分を「支援者」だと誤認している者だけだ。


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(以下は、(5)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 先輩が述べていることと私が考えていることは、言葉にすれば全く同じである。すなわち、「お金よりも何よりも命が大切である」。「経済を優先して人命を軽視するなど、本末転倒の話である」。そして私は、このような論理に対して異議の述べようがないはずである。しかし、どこかが違うと思う。何よりも命が大切であることを知り抜いた者は、「命を守れ!」とシュプレヒコールを上げるものではない。そのような行動をすれば、精神が破壊されるはずだからである。

 「あの3月11日の出来事によって価値観が変わった」と言う人は多い。私もその1人である。それだけに、その変わり方の違いは、絶望的な懸隔を生むことを思い知らされる。私は、人生とは何と理不尽で不条理なものかと思った。この世には、シュプレヒコールを上げられるような正義などない。ところが別の人にとっては、3月11日の出来事は、その人の人生の明確な目標をくっきりと確立させるものであった。その先には高揚と興奮がある。

 がれきが危険な汚らわしいものであるならば、その物体と共に暮らす被災地の人々は、既に取り返しのつかない被害を蒙っていることになる。いかに「子どもを守れ」と叫んだところで、被災地に暮らしている子供は、既に守られていない。よって、ここで守られるべき子供とは、全ての子供のことではなく、被災地以外に住む子供のことである。そして、地震と津波による被害を受けた人々は、敬意を表されるどころか人間扱いされていない。私は、このような議論の前提に立つ「命」に、ひどく利己的なものを感じ続けている。

 生と死は弁証法的な関係にある。生は死の単なる否定ではなく、死は生の単なる否定ではない。ところが、「汚染がれきが全国にばら撒かれると命が危ない」と声高に叫ばれるとき、そこで言われている「命」は、単に死の否定である。すなわち、生を含むところの死の弁証法を経た「命」ではない。そのような「命」を知る者は、内省的であり、大声を出さず、かつ内部に激しいエネルギーを抱えているはずである。私は、突然急用を思い出し、その会議室を去った。

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