犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

一票の格差について

2013-03-27 23:40:22 | 国家・政治・刑罰

 以前、ある選挙事務所のボランティアをしていたことがあります。仕事はほとんど証紙貼りばかりでしたが、投票日だけは候補者や後援者と一緒にテレビで開票速報を見守りました。その際に、従来は投票者の側からしか見ていなかった「一人一票」という点について、候補者の側から初めて見たことにより、色々と気付いた部分がありました。

 開票所からの情報が次々と入ってくるたびに、事務所の空気が一変し、その場の全員が一喜一憂します。票読みに微妙な外れがあったり、票田と目されたところが振るわないと、空気は非常に重苦しくなります。他方で、思わぬところで票が伸びると、選挙カーで回った効果に喜び、手応えを感じるようになります。すでに投票が終わり、客観的には結果が出ているはずであっても、本当に「追い上げた」「追い抜かれた」という感じになるのが妙なところでした。

 投票率の高低の情報については、組織票及び浮動票とのからみで、その候補者が有利か不利かの意義しか持たなくなります。不思議なことに、候補者や後援会の方々と話し込んでいると、それ以外の意義が消えます。選挙事務所にいる私の心の中には、「民主主義社会において投票率が低いのは残念だ」という気持ちは、どこを探してもありませんでした。他の陣営の思惑や今後の事務手続きを考える場において、民主主義の抽象論は、いかにも世間知らずの空論のように思われました。

 その候補者は何とか下位のほうで当選しましたが、落選者とは僅かな差でした。そして、当選を喜ぶ候補者や後援者の頭の中にも、私の頭の中にも、投票所で名前を書いてくれた一人ひとりの顔はなく、数百人という単位での人々の顔もありませんでした。貴重な一票を有権者は投じてくれたのだという感謝もなく、一人では何も変わらない一票が集まれば力になるという認識もなく、単に勝負に勝った喜びだけが満ちあふれていました。有権者は一人の人間ではなく、単に一票という数でした。

 一票の格差の是正について、なぜ国会議員は消極的なのかという点については、有識者が色々と述べていると思います。私は上記の経験を通じ、一票の格差の問題を論じる有識者の視角が、国会議員のそれとは前提を異にし、そもそも言語のレベルが違っていると感じるようになりました。民主主義の前提である「一人一票」とは、「一人ではなく一票」ということです。従って、「一人が一票になっていない」と言われても、現場では具体的にピンと来ないのだと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。