犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

若松英輔著 『魂に触れる ――大震災と、生きている死者』 (5)

2013-03-21 21:06:01 | 読書感想文

p.41~

 震災の場合のみならず、愛する者を失い、苦しむ者は後を絶たない。また、確実に悲しみは続く。近親者を失った人に対して日蓮は、早く悲しみを乗り越えろなどとは言わなかった、「一緒に悲しんで、もっと悲しめ、もっと悲しめといっている」と、上原専禄は書いている。

 この言葉は、彼が妻を失ってまもなくのものだが、後年の彼なら、悲しむのは生者ばかりではない、死者もまた悲しむと書いただろう。なぜなら、共に悲しむことほど、苦しみを分かち合う営為はないからである。死者は、墓中にはいない。


p.136~

 死後の世界には国境もなく、それぞれの文化もなくなる。そこでは、現世を感じさせるものは消えてしまっている。自分がかつて日本人であったことも遠のいていく。それはあたかも世界市民のようである。しかしそうした思想に、日本人は奇異を感じて来たのではないか、と柳田國男は疑問を投げかける。

 「一蓮托生」の言葉に見ることができるように、望むなら、夫婦は現世だけでなく、来世でもつながる。冥界の棲家である「蓮の台」も夫婦で分け合うとする霊性に、柳田はむしろ深く動かされる。こうした宗教経験は、彼が古い民俗の記憶をもとめて、山、海、そして人々、あるいはその記録に出会うたびにさまざまな形でよみがえってきたに違いない。


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(以下は、(4)の私の文章部分からの続きです。上記引用部分の直接の感想ではありません。)

 「震災による心の傷が癒える期間」と「がれきが撤去できる期間」を比べてみれば、前者のほうが途方もなく、目に見えず、繊細な問題であることは自明だと思う。がれきは、理屈の上ではいつかは完全に撤去できるが、心の傷は理屈の上でも一生癒せない。がれきの広域処理に関しては、受け入れ拒否が復興の妨げになっていると言われ、「絆」は嘘だったのかとの批判を耳にする。私は、受け入れ反対論の主張とは全く別の理由で、「絆」は最初から嘘だったと思う。

 世の中の喧しい議論は、全て「結論ありきの論法」で構成されている。ここで、「結論ありきの論法ではないか」と突っ込んだところで、堂々巡りで虚しいだけだと思う。他人に結論を強制しないならば、人は内省的に自問自答しているはずである。がれきの放射線量の測定結果は、紛うことなき客観的数値であり、人間の主観で変わるものではない。ところが、その数値が高ければ高いということによって、低ければ低いということによって、いかなる結論の論拠にもなり得る。

 「汚染がれきを『絆』の美名の下に全国にばら撒くことの愚」に対する義憤が収まらない先輩は、がれきの焼却を被災地で行えば地域の雇用が確保され、復興にも役立つのだと言う。試算によると、焼却場を東北に30基建設すれば、がれきは約8年で消えるらしい。そして、その間、被災地の雇用は確保される。「がれきは安全だと言うならば、全国にばら撒いていいという同じ理由で、被災地の人達の健康も害することはない」と先輩は語る。理詰めである。私は釈然としない。

 私の思考は、全く別の場所に飛ぶ。8年間、毎日毎日がれきの焼却ばかりしていれば、人間は間違いなく気が狂う。被災地以外の人でも、どこか精神状態が限界に達するはずである。ましてや、その日の午前中までがれきが「生まれ育った街」であった人については言うまでもない。人体への被曝が懸念される状況においては、「人間の心はベクレルやシーベルトの単位で測れない」などという私の思考は感傷的に過ぎるのだろうか。私は黙って先輩の話を聞いている。

(続きます。)

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