犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『ひとを愛することができない』

2012-02-15 00:03:52 | 読書感想文

p.36~

 弱者を助けるべきであるということを原理として認めよう。観念上は完全に理解している。私にとって、弱者を助けること自体はそんなに困難なことではない。だが、私はほとんどいつも愛からではなく、そうすべきだと思っているから助けるのである。

 1秒の何分の1か知らないが、理性が介入して、生の感情はそうすべきであるからそうするという冷静な態度に変わってしまっている。あっという間に「~すべきである」という判断が、私の身体を貫いてしまう。その後になって、私の身体はじつにこまごまといま要求されている「~すべき」しぐさを実行しはじめるのだ。

 私は苦しんでいる人に遭遇することが恐ろしい。自分が試されているような気がするからである。苦しんでいる人の眼は鋭い。とっさの私の親切な態度のうちに、私の真意を見抜くのではないかと恐れる。私のまめまめしい表層的行為のすぐ裏にどうでもいいという冷たい感触を探り当てるのではないかと恐れるのである。

 私がいくら演技を熱心に続けようとも、その技巧は見抜かれる。じつはどうでもいいのだ、という私の構えを見抜かれるのである。それが私には恐ろしいとともに、私の行為の裏に潜む不自然さを見抜く鋭敏な眼を憎むようになる。


p.95~

 私が驚愕するのは、多くの人が自分を痛めつけた人に向かって謝ってほしいと要求することである。心から出た謝意でなければ虚しいはずなのに、そして要求された謝意は憎悪にくるまれたものであることは承知しているはずなのに。かたちだけの謝意はますます相手を憎むことになり、相手からますます憎まれることになるのに、なぜそれを要求するのだろうか。

 答えは簡単である。相手を屈服させたいから、相手に屈辱を味わわせたいからなのだ。本心謝りたくない相手を無理やりに謝らせるのだから、信念も誇りも捨てて相手の頭を強制的に下げさせるのだから、これは相手にとっては大いなる屈辱である。だから、それをしてもらおうじゃないか、とくと見てやろうじゃないか、というわけだ。

 黒々とした復讐である。だから、本心から反省していない者に対してこそ謝意を要求する声は激しくなる。みずからの自由意志ですでに反省してしまっている者にさらに謝意を要求しても、もはや復讐は成り立たない。謝意の要求は、反省していない人にこそ向けられるのである。


p.213~ 森岡正博氏の解説

 中島さんは私に言った。倫理学者は、「対話」が大事だとかすぐに言うが、彼らは実生活でほんとうに対話しているのか。必要なのは、「対話」について議論することではなくて、対話が必要なときに実際に「対話」することではないのか、と。中島さんの視線は、つねに、自分が実際にどうであったのかという点に注がれている。自分の人生こそが、中島さんの出発点であり、終着点である。


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 この社会における法律や規則は、人々が漠然と信じている常識や、当たり前だと思って疑わない事実の集積に存立の基礎を置くものであり、多数決の民主主義ではそれ以外にあり得ないと思います。ところが、実際に法律が問題となるトラブルの場面では、そのように信じてきた世界観や人生観が対立し、法律以前のレベルでの争いが生じ、法律が役に立たなくなります。

 このような場面において、最も威力を持つ言葉は、人々に共有されている常識を最初から信じていない言葉や、当たり前だ思われている事実を端から相手にしていない言葉です。私は最近、仕事上でのいくつかの出来事を通じて、このような言葉が過剰なまでに恐れられていることを再認識しました。常識を信じている者同士の争いの場面で、常識そのものが疑われれば、事態は一変します。

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