犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者参加人が被告人に殴りかかる

2009-06-25 21:38:32 | 国家・政治・刑罰
6月25日、横浜地裁小田原支部で開かれた殺人事件の公判で、被害者参加制度に基づき出廷した被害者の長男が、永田英蔵被告(71)に殴りかかろうとして刑務官らに取り押さえられた。永田被告は昨年12月8日、小田原市の海岸で、片川美津子さん(当時54)の首をひもで絞め殺害して砂浜に埋めたとして、殺人罪・死体遺棄罪に問われている。被告人が閉廷直前、裁判長に促されて「やっちゃったことですから罰は受けます」などと述べた後、長男は「おい、謝ることもできないのか」と言って被告人に殴りかかった。長男は怒りに満ちた被告人質問をぶつけ、「たった一人の肉親」と証言し、被告人に鋭いまなざしを向け続け、廷内には緊張感が漂っていたとのことである。今回の件を受け、被害者支援自助グループ「ピア・神奈川」の渡辺治重代表は、「遺族の精神的負担は相当なもの。廷内でのトラブルを避けるため、支援グループや友人らがサポートする態勢を整えるべきだ」と話した。横浜地検支部は「想定外の事態と受け止めている。物品が壊れなかったため刑事罰には問わない」とし、横浜地裁支部は「適切な警備人員を配置していた。騒動は残念だ」と話している。

自分の母親を殺した人間が、自分の目の前にいる。このような状況は、経験がない者には想像を絶する。想像しようとしても、すぐに限界にぶち当たる。経験がない私に想像できるのは、以下のようなことだけである。母親を殺された被害者参加人は、もちろん法廷で被告人に殴りかかることがルール違反であることは当然承知であり、自分の気持ちを抑えに抑えていた。堪忍袋の緒が何度も切れているのを繕って、耐えに耐えた。それを抑えるための最後の希望が、その時には、母親を殺した人間の口から出るほんの一言の謝罪の言葉であった。その時には、その言葉を聞くことが、極限まで追い詰められた人生の全てであった。しかし、自分の母親を殺した人間は、母親の命を奪ったことについて何も語らなかった。「刑に服します」とだけ述べて、「罪と罰」のうちの「罪」を語らなかった。この瞬間が何事もなく過ぎて閉廷すれば、被告人が罪を語らなかった事実は、あっという間に消え去る。世間はおろか、裁判長や刑務官においても消え去り、世界の中で覚えているのは自分一人だけになる。ここで殴りかからなかったら一生後悔するし、殴りかかっても恐らく一生後悔する。論理的に凝縮され、時間的に圧縮された自問自答の中で、全人生を賭けた善悪の基準に照らして、その時には唯一の行動が選ばれた。すなわち、殴りかかろうとする自分自身を止められなかったのであり、殴りかかろうとしたのは自由意思の限界を超えていた。誤解を恐れずに言えば、恐らくこのようなことである。

第一東京弁護士会・犯罪被害者保護委員長の大澤孝征弁護士は、「人間である限り感情の発露は自然なことだが、今回のような行動は認めがたい。こうしたケースが重なれば、この制度自体に批判が向けられる」との懸念を述べている。そもそも被害者参加制度に対する批判は、被害者が感情的に厳罰を叫ぶことによって冷静であるべき法廷が報復の場になり、被害者もかえってストレスを抱えてしまい立ち直りに有害であるというものであった。今回の件を評して、この懸念が現実化したとの捉え方は、実際に母親を殺された者の目の前に被告人がいるという、恐ろしく残酷で想像を絶する状況に直面して、その人間心理の繊細なところに分け入って現実を把握する姿勢に欠け、抽象的な法律によって与えられた単純な図式をあてがっただけで全ての結論を出そうという安易な手法である。人を殺すことと人を殴ることを比べてみれば、人を殺すことのほうが重大であることは言うまでもない。しかしながら、法廷の中においては、人を殺したことよりも人を殴ろうとしたことのほうが重大である。これが近代司法のルールであり、法治国家の上に築かれてきた法廷の秩序である。これはもちろん1つのフィクションであり、人を殴ることよりも人を殺すことが重大である事実は、時と場所によって動くことがない。ゆえに近代国家に生きる人々は、このフィクションを守り抜くため、今回の被害者参加人の行為を「騒動」「感情の発露」「法廷で暴れた」と評して、この問いを封じ込める。

今回のような件の周辺には、無数の被害者遺族が被告人に怒鳴りつけたくなるのを涙を流しながら抑え、殴りかかりたくなるのを拳を握って抑えてきた現実がある。この現実の先には、恐らく、最愛の人を奪われたにもかかわらず、怒鳴ることも殴ることもできなかった自己嫌悪の苦しみもある。そのような努力の集積によって、現在では被害者が被告人に殴りかからなかったことは全く問題ではなく、被害者が被告人に殴りかかったことだけが問題となっている。今回の被害者参加人も、最後の最後の瞬間に断腸の思いで自分の行動を抑え切り、傍聴席に座ったままであったならば、世の中には何の問題も存在せず、その裁判は本人以外には誰に記憶されることもなく消え去っていたことになる。法廷の秩序を破ることはルール違反であると知りつつ、ある瞬間にそのルールをも上回る善悪の判断を自らに課して一瞬の行動を選び取ることは、必然的に全人生を賭けた選択となる。このような人間の限界の姿を前にして、「いきなり声を荒げた」「短絡的に暴れた」「感情的になって叫んだ」と評して何の疑問も持たないならば、それは人間存在や倫理に対する嗅覚があまりに鈍いというものである。ある問いの立て方が大前提とされているとき、その前提自体に付いていけないならば、その前提の下での問いに答えることはできない。時代を超えた「罪と罰」の問題と、近代司法のルールとの軋轢が解消できていないのであれば、近代司法のルールが提示する問いに答えることはできない。

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