犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

上田閑照編 『西田幾多郎随筆集』より その6

2012-02-12 00:17:54 | 読書感想文
p.135~ 「知識の客観性」より (昭和8年4月)
 明治時代は外国文化を吸収するに急にして、そのため種々なる弊害を生じたこともあるであろう。そういう点からは、我々は我々の根本に還って考えて見なければならぬのはいうまでもない。しかし徒らにその弊のみを論じて、極端な反動的思想に走ることは、恰も明治の始において逆の方向に反動的であったと同様に、真に我国の将来を思うものということはできない。
 由来、我国には何の方面にも遠大なる根本的研究というものは重ぜられない。いつもすぐ目前の効果のみが問題となるのである。何事でも何処までも深く掘り下げて根本的に考えるという如き精神と努力に乏しい。それは外国文化の研究に従事するものの受ける非難であるが、日本文化の研究に従事する人々にも同様であると思う。

p.247~ 歌と詩 (昭和9年)
 人は人 吾は吾なり とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり

p.341~ 山本良吉あて書簡より (昭和10年5月)
 日本の法学者は法律の哲学的歴史的研究というものを怠っている。そこから深く根本的に研究せねばならぬ。軍隊では学問の解釈も権力で定めてよいように思うかも知らぬが、それでは却って学問の進歩を阻害することとなると思う。将来同じ事をくりかえすばかりだ。

p.373~ 書簡抄より (昭和10年11月)
 論理というものの本質をその出来上った形式からでなく、その歴史的世界における成立から掴まねばならぬと思うのです。

p.143~ 「『理想』編集者への手紙」より (昭和11年5月)
 多くの歴史哲学というものはあるが、私にはどうも満足を与えることはできないのでございます。それらの人の言う歴史的世界とは、自己というものがその中にいる世界ではないと思うのです。自己というものが何処までも外にいて、ただ、芝居か何かを見るように、眼だけで見ている世界にすぎないと思うのです。
 固より歴史哲学には種々の歴史哲学があり、すべてが単にそれだけのものというのではないが、要するに、真の自己がその中にいて、その中から見るという立場から考えられた歴史哲学ではない。私はカント哲学の立場からは、歴史的実在の世界というものは考えられないというのはこの故でございます。

p.344~ 和辻哲郎あて書簡より (昭和12年5月)
 従来の如く自然科学的対象認識という如き立場からのみ実在を見ていないで、我々は今後深く歴史的実在そのものを分析して新しい実在の範疇を以て実在を考え行かねばならない。自然を歴史において見なければならない。
 すべて従来の哲学は自分というものを歴史の外に置いて考えていた。将来自己というものがこの世界の中にあり、これと共に動くものとしてそこから認識論も倫理学も考えられねばならない。


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 政治が目指すべきものが「最大多数の最大幸福」であるとすれば、どんなに幸福を最大化したとしても、幸福が拒絶される人物の壁に当たるように思います。それが哲学者や芸術家です(実際の職業とは一致しません)。これは、幸福を破壊しなければ哲学者や芸術家であることを辞めなければならないという単純な理由に基づきます。国民の幸福を声高に演説する政治家にとっては、理解に苦しむ話だろうと思います。

 政治家が身を粉にして走り回り、ストレスに耐えて戦うとき、自身の生活は犠牲になります。他方、哲学者や芸術家が苦悩にのた打ち回るとき、自身の生活は犠牲になります。どちらも言葉の上では、同じように「生活が犠牲になる」という状況ですが、その内容は全く違うように思います。国民の幸福を目指す政治家の目から見れば、哲学者や芸術家の苦悩など、社会の役に立たない個人的な範疇に属するものです。「政治に哲学がない」と言われる所以だと思います。

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