犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

夏目漱石著 『門』より

2011-10-04 23:31:57 | 読書感想文
p.242~

 彼はこの晩に限って、ベルを鳴らして忙がしそうに眼の前を往ったり来たりする電車を利用する考が起らなかった。目的を有って途を行く人と共に、抜目なく足を運ばす事を忘れた。しかも彼は根の締らない人間として、かく漂浪の雛形を演じつつある自分の心を省みて、もしこの状態が長く続いたらどうしたら可かろうと、ひそかに自分の未来を案じ煩った。
 今日までの経過から推して、凡ての創口を癒合するものは時日であるという格言を、彼は自家の経験から割り出して、深く胸に刻み付けていた。それが一昨日の晩にすっかり崩れたのである。

 彼は黒い夜の中を歩るきながら、ただどうかしてこの心から逃れ出たいと思った。その心は如何にも弱くて落付かなくって、不安で不定で、度胸がなさ過ぎて希知に見えた。彼は胸を抑えつける一種の圧迫の下に、如何にせば、今の自分を救う事が出来るかという実際の方法のみを考えて、その圧迫の原因になった自分の罪や過失は全くこの結果から切り放してしまった。その時の彼は他の事を考える余裕を失って、悉く自分本位になっていた。
 今までは忍耐で世を渡って来た。これからは積極的に人世観を作り易えなければならなかった。そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。

 彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。けれどもその響は繰り返す後からすぐ消えて行った。攫んだと思う烟が、手を開けると何時の間にか無くなっている様に宗教とははかない文字であった。


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 私が裁判所で仕事をしていたときは、「圧迫の原因になった自分の過失は結果から切り放して」、不安で不定な心から逃れ出たいと思うことの連続だったと記憶しています。刑事裁判事務に付随して起きる諸々のトラブルは、そのまま人権問題に直結し、公務員は強い非難を受け止めざるを得ない立場に置かれます。
 裁判所書記官は、注意散漫や職務怠慢を責められたならば、その思考の枠組みに反省の態度を示しておいたほうが無難です。ところが、その態度を示すことに慣れてしまうと、人は「自分を責める」以外の思考ができなくなります。

 裁判所が人権問題を正面から突きつけられ、私がその一端をかぶるべき地位に置かれたとき、私の心の本音のところには、「自分を責める」以外の思考がありました。なぜ犯罪者のために前科前歴がない自分が心労を患わなければならないのか、そもそも最初の犯罪が犯されていなければ全ては済む話ではないか、私は結果的に犯罪を推進しているのではないか、といった数々の疑問です。
 このような思考の渦と、社会人・組織人として求められる反省の態度との折り合いを如何につけるかという問題は、「人はなぜ仕事をするのか」という問いにもつながっていました。

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