犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

今西乃子著 『心のおくりびと――東日本大震災 復元納棺師』より (2)

2013-03-08 22:47:07 | 読書感想文

p.118~

 8月に入り、別の問題が出てきました。被災者の方々の自死です。地震直後は、「命」が助かってよかった……と人は思うのでしょう。しかし、時間が立ち、再出発をしようと思った時、「命」以外のすべてのものを失ったことに彼らは気づくのです。復興とは何なのでしょうね……。

 本当に必要な支援は、今、生きている被災者たちの心を支える「心の支援」のことなのだ。被災者たちの思いは複雑で、メールで寄せられるさまざまな心情は、読んでいるだけで心がつぶれてしまいそうだった。

 「子どもと夫を津波で亡くしました……。遺体は早くに発見されましたが、仲のよい隣人の家族がいまだ行方不明のままで、その友人の気持ちを思うと、自分の家族だけ遺体が早く見つかって申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当に……自分の家族だけ遺体が見つかるなんて、友人に何と言っておわびをすればいいのでしょう……。教えてください……」。


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 一昨年の3月中旬、メディアを通じて惨状を伝えられるたびに、私はこの事実をどのように受け入れればよいのかと途方に暮れました。しかしながら、計画停電以外に特に目立った被害のなかった場所で暮らしていた私は、徐々にその悩みを失い、疑問は宙に浮いたように思います。これは、答えのない問いそのものを捉えて問いを解消していたわけではなく、単に自分の無力さにかまけて目を逸らしていただけでした。

 特に私が就いている仕事では、元々「大地震でも起きてくれないと受注が増えずに売上げが上がらない」というような論理が支配していましたので、私の採るべき態度は、社会人としては当然のものでした。私の周囲では、震災の直後から、無理にでも「復興」の語を繰り返し、つべこべ言わず「頑張ろう日本」を連呼し、経済を動かし、社会を動かすより他に方法はないという声が主流でした。確かに、経済という視点からは、これが唯一の道でした。

 時の経過に伴い、「被災地に以外に生きる者は十字架を負いようがない」という論理が力を増すに従い、噤まれていた言葉が続々と復活したように思います。例えば、「5年後・10年後の自分の具体的な自分の姿をイメージする」「一流になる人間・二流で終わる人間」といったものです。私は、「頑張ろう日本」「絆」といった言葉の裏に、これらの噤まれていた言葉も常に寄り添われ、外に出る機会を窺っていたのだと感じました。

 震災後に行われた初めての選挙では、右側からは「元気な日本を取り戻す」と叫ばれ、左側からは「一人一人を大切にする」と叫ばれ、いずれにしても被災地の「心の支援」においては騒音に過ぎなかったと思います。「復興とは物理的な復興をして済む話ではない」という命題は、資本主義社会のビジネスの論理とは大きくベクトルを異にしますが、このことは人間の深い部分の精神衛生の健康には反しているのだろうと思います。

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