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p.38~
ひとりの老人がガレキの中の赤いスレートを引っ張り出しているのが見えた。ニュースを見ている人たちには、それはただのゴミの山にしか映らないだろう。しかし、この人たちにとって、ガレキは自分たちの思い出がぎっしりつまった宝なのだ。胸が張りさけそうだった。「生きてきた証の重さ」を見せつけられたような気がした。
ガレキを撤去しなければ被災地の復興は進まない。復興とはいったい何なのか……。ガレキがきれいさっぱりなくなり、すべての犠牲者の身元が判明し、きちんと荼毘に付され、国の補償のもとで、被災者たちが生活を再建させることですべてが終わるのだろうか。もちろんそれは大切なことだ。しかし、失ってしまった彼らの「生きてきた証」はもうもどってはこない。すべてを失ってしまった彼らの心をうめるのは、そんな簡単なことではない。
p.52~
この世の中で絶対的に平等なものなど何もない。金持ちもいれば貧乏もいる。健康な人もいれば病む人もいる。容姿端麗な人、そうでない人、頭脳明晰な人、そうでない人、さまざまな人たちが世の中で生きている。ところが、たったひとつ、絶対的に平等なことがこの世の中にはある――。それは、「人はだれでもいつか死ぬ」ということだった。
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この世の中は、生きている人が優先です。生きている人間の方が死んだ人間より大切であり、人が生きていくためには死者に構っている暇はないと言われます。そして、このように言われるとき、必ず論理のすり替えが行われているものと思います。生と死の対比で語られていた論理としての「生きる」ということが、食べて寝て働いて遊ぶという生活の意味での「生きる」に変わっているという点です。
被災地の復興という文脈において、家族を亡くした方に対する無責任な励ましが行われるのは、この論理のすり替えそのものだと思います。人がある人と別れていないのになぜか別れしまうということ、すなわちあと1回だけ、あと5分だけでも会って別れの時間を持てば別れられるのに事態がそうなっていないという世の中の仕組みは、人が生きて死ぬという存在の形式の不可解そのものだと思います。
生きている人間の人生は、現に死者によって左右されています。これが紛れもない現実であり、生きている人間の方が死者より大切であるならば、その現実に左右されている人間が大切でなければならないのが物事の道理だと思います。しかしながら、論理のすり替えの固定観念は非常に強く、ここでの「生きている人間」は、悲しみから立ち直って前向きに生きている人間だけが想定されているように思います。