犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島敦著 『李陵・山月記』より(2)

2012-08-24 23:15:23 | 読書感想文

「李陵」 p.113~

 従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底のものと思われた。

 彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で画いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。

 彼は「作る」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述べる」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作る」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読み返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止める。これで、「作る」ことになる心配はないわけである。

 しかし、これでは項羽が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝も楚の荘王もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。 そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊會や范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。


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 歴史を「作る」ことを警戒しつつ、「述べる」ことのみに心を砕き、なおかつ「述べる」ことだけで終わらないという歴史への向き合い方は、非常に繊細かつ厳格であると感じます。過去に起きてしまった歴史は客観的には唯一絶対のはずであり、ゆえに後世の人々によって歴史の真実が探求されます。ところが、この種の真実が真実であったためしがなく、それが歴史というものに対する双極的な固定観念を生んでいるように思います。

 歴史を「作る」方向を貫徹すれば、自由主義史観と自虐史観の論争にみられるように、歴史認識を巡る妥協の余地がない対立が生じ、容易に収束し得なくなるものと思います。ここでは歴史の真実を探求する形が採られていますが、実際には真実が探求されているとは思えません。他方で、歴史を「述べる」方向に終始すれば、歴史の謎がミステリーとして楽しまれることとなり、やはり真実など探求されなくなるものと思います。後世の新発見によってその都度変わる歴史など、歴史の名で呼ばれるに値しないと感じます。

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