犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島敦著 『李陵・山月記』より(1)

2012-08-23 23:37:18 | 読書感想文

「弟子」 p.55~

 大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかっても未だに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正が虐げられるという、ありきたりの事実についてである。此の事実にぶつかる毎に、子路は心からの悲憤を発しないではいられない。何故だ? 何故そうなのだ?

 悪は一時栄えても結局はその報いを受けると人は云う。成程そういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が究極の勝利を得たなどという例は、遠い昔は知らず、今の世では殆ど聞いたことさえ無い。何故だ? 何故だ? 大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。

 彼は地団駄を踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。其の様な運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天は人間と獣との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟人間の間だけの仮の取決に過ぎないのか? 子路が此の問題で孔子の所へ聞きに行くと、何時も決まって人間の幸福というものの真の在り方に就いて説き聞かせられるだけだ。

 善をなすことの報いは、では結局、善をなしたという満足の外には無いのか? 師の前では一応納得したような気になるのだが、さて退いて独りなって考えて見ると、矢張どうしても釈然としない所が残る。そんな無理に解釈してみた揚句の幸福なんかでは承知できない。誰が見ても文句の無い、はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白くないのである。


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 この小説は、孔門十哲(孔子の10人の弟子)の1人である子路(BC543年~BC481年)をモデルとしたものです。後世の者が歴史から何かを学ぶという場合、時代や地域が全く違うのであれば、その違いを前提として学ぶ材料を探すのが通例だと思います。そして、その中から類似性が見出されれば、何か新しい発見でもしたように驚かれますが、これは入口が逆だと思います。

 時代や地域や言語の違いを超えて、人間の内心は必ず言葉で構成されています。そして、確かに人間の内心がこのようなものである以上、後世の者が過去の人物に近づこうとすると、どうしても言葉によって拒まれます。人間の内心の言葉そのものは言語化できず、その外に出てきた言葉はすべて嘘を語っているからです。2500年前の人物の言葉から教訓を得ようとすれば、その嘘によって騙される以上、こちらも堂々と嘘をつくしかないと思います。

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