犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

勢古浩爾著 『人に認められなくてもいい』より (2)

2013-02-11 23:27:22 | 読書感想文

p.203~

 結婚後わずか3カ月で夫が出征して戦死したあと、90歳の今日まで一人で生きてきたおばあさんがいる(日本テレビ「NNNドキュメント」2011年8月7日放送)。再婚をすすめる話もあったが、夫が帰ってくるかもしれないという思いを捨て切れず、結果、その後の人生を一人で生きることになった。夫婦や家族連れを見るのがつらくて、できるだけ繁華街を避けるようにして暮らしてきた。夫を偲ぶものは、2枚の写真と、処分することができない軍服だけである。慰霊祭に出席するときだけ心が落ち着くという。

 このような人生は不幸な人生、といわれるだろう。たった3カ月の結婚生活ではないか、しかも戦死した夫のためにずっと一人のままとは、台無しの人生ではないか、と。本人にとってもつらくさびしい生活だったにちがいない。だが、もう生きられたことだ。わたしがどう思おうとどうでもいいことだが、わたしは彼女の人生を幸福だったとは思わない。不幸だったとも思わない。幸不幸を超えて、生きるとはこういうことなのだ、という気がする。

 もし彼女がその気になったのなら、また別の人生がありえたはずである。しかしそんなことを言ってもしかたがない。もう生きられたことである。幸福ではなかったかもしれないが、見事な人生ではないか、と思う。心にもないことを無理に言っているのではない。そんな「見事」などいらない、「幸福」ならそのほうがよっぽどいいではないか、というのはそのとおりであろう。

 しかし、それだけが人生ではない。愉しまなければ「損」だ、という功利的な生を蹴散らすような生き方があってもいいのである。いや、蹴散らさなくていい。静かに、わたしはこのように生きるほかはなかった、という生があってもいいのである。当然のことだ。あってもいい、というのも余計なことだ。


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 人間の品格などというものは、実体のない概念だと思います。何が上品で何が下品かと言えば、そのような定義による具体的事例の区別は不可能です。しかしながら、上記のような話を耳にして、取ってつけたような「偉い」「感動した」という褒め言葉や、「昔の時代のことだ」「今では考えられない」という他人事の感想や、「馬鹿じゃないか」「何とかならなかったのか」という意見しか心に浮かばない者は、あまり人間が上品ではないと感じます。

 経済優先社会に伴う人間の思考の変化という点において、こと人間の品格の指標となるものは、「幸・不幸」「損得勘定」「自由と強制」といった概念の捉え方だと思います。上記の女性の生き様を前にして、自発、欲求、自由という感覚が思い浮かばず、強制、義務、圧力という感覚で事実を受け止めるのであれば、その女性の精神の上品さは捉えられないだろうと思います。そして、それは彼女の一生を見る者の姿が鏡に映っているのだと思います。

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